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大切な人を守りましょう

奥三河にもいつもドライブやツーリングの休憩地点として賑わう場所が道の駅を中心に何箇所かある。施設の飲食や売店などは休業であっても公共施設のトイレとして駐車場は開放されている。今日はそうした場所から県内圏外より多くの人が集まっているという映像がSNSで流れてきた。ニュースでも遊戯施設やら商店街やら都市部の公園やらで人が多く集まっていたというニュースが流れてくる。なんだかとても悲しい。別に自分がそうならないように努力しているからではなく、それがどういうことで、どんなリスクを自分の大切な人にもたらすかを考えられない、または考えようとしない、もしくは自分も加害者であり被害者になり得る可能性があるということへ想像力を働かせることができない、そんな様にだろうか。

その風景から想像するのは、一人一人の「まっいっか」的な心理やら、「周りもしているし」的な群衆心理やらがそのようにさせてるにせよ、この難局がどのような結末であれ鎮静化した後、どうしてもさらにその先に豊かな未来なんてないような気がしてしまうからだろうか。とにかくそうした想像力の欠如が生み出す風景とそれを大したことだと感じない人の表情がとても悲しい気持ちにさせる。一人一人を分解してみれば多分各々が仕事を持ち、立場や責任や義務を果たしているはずだ。けれどもそれはすでに「仕組み」として形骸化され、結果的にそうした役割を果たしているだけで、主体的に、イコールそれは自分が社会に属している一員であり、その社会は一人一人の個人が連なり、家族や集団が繋がり、法人や団体が連結し、地域や街や国が連結し、その根底に個人があることを意識しているということにはならない。もしこうしたことを「知らない」「教えられてない」「考えるって?想像力って?」と、問い返されたら、それはもっと悲しい現実で、社会の根底をなす「教育」のありようをもはや疑うしかない。

けして個人のあり用やら薄っぺらい意味での個人主義的にをひたすら追求していくことがそうした全体の支え合う仕組みを無視すること、無視して良いということではないはずだ。そうした支え合う仕組みの中にどのような自己実現や豊さを形にしていくことが、大人であったり、社会人ではないのかと思う。今日見た、悲しい気持ちなった事実がそうした物事の「ありよう」を把握し俯瞰し、意識できない人が作り出した、それもひとつの社会の側面であるとするならば、それはあまりにも想像力に欠けた世界であり、とても刹那的なものであるとしか思えない。想像力とは主体性を持った自らの中に存在する動機であり根元であると思う。その力や蓄えた知恵や想像力、誰かを少し思いやる心を今こそ少しだけベクトルを合わせ、協調させることが、それぞれの大切な人を守り、自分の暮らしを守り、社会に果たすべき責任だと感じる。それがここ自分の暮らすこの街の今日の風景であったことがとても悲しい。

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今日も部屋からDOOR TO DOOR、約1時間の軽めのサイクリング。タイヤを新しく変更しようかと。もちろんIRC TIRE BOKENだ。いよいよBOKENデンビューかな。

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