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言葉の頼りなさについて

言葉をそこまで信じていない。
現実の複雑さを人類の貧しい辞書で書き取るなんて、どうしても無理だと思ってしまうのだ。

たとえばいま、僕はカフェにいる。
カーテンから差す陽の光は、夜の訪れをほのかに匂わせながら、やさしく店内へ入り込んでくる。オレンジに染まった僕の秘密基地は、時間がゆったりと流れていて心地良い。ぬるくなったカフェオレは、ここで過ごした時間の経過を静かに示している。

でも、ここまで書いてもなお、僕は自分がいま体験しているこの現実を、完璧に表現できていない。やさしく流れる時間と、精神を癒す空間との全てを、僕は言葉で表しきれていない。だから僕は、どこかで嘘をついている気がしてしまう。この豊かな現実を言葉に落とし込めないことに、もどかしさを感じてしまう。そしてこのもどかしさが、言葉に対する僕の嫌悪感を生み出している。豊穣な現実をしたり顔で抽出する言葉に対する、底知れない危機感を。

現実は、言語に還元され得ない豊かさをもって、僕らの眼前に顕現している。そして僕たちは、そうした現実に、全身全霊で存在している。指に触れる空気のやわらかさと、足裏に感じる地面の固さとの全てが、僕らの現実を複雑に形成する。そんな、複数の要素が織り込まれた多元的な現実を、たったひとつ、言葉という一元的なものに還元することなど、果たして本当に可能だろうか?たぶん、それが出来ないとどこかで分かっているから、芸術の形式はこれまで枝分かれしてきたのだろう。言葉の頼りなさに気づいたから、ゴッホは筆を握り、マイケル・ジャクソンは踊ったのだ。

現実至上主義者なのかもしれない、僕は。だからたぶん、言語の暴力性に対して人一倍繊細でいるのだろう。でも僕には残念ながら、絵やダンスの才能が与えられなかった。だから僕は、書くことを選ぼう。言葉では表しきれない現実を、それでも言葉で描き出そうとする姿勢に、僕は可能性を感じずにはいられない。何回も同じこと言ってるかもしれないけど、それだけ大事なことなんだ、これは。

とにかく僕は、現実と対峙するために文を書くことを選んだというだけだ。だから、僕ができない仕方で表現を試みるすべてのアーティストを、僕は心から尊敬する。ひとりじゃない、と思えた気がして嬉しくなる。

同志諸君に、僕の全ての言葉をもって敬愛の念を捧げる。

そして僕はいま、カフェオレで胃がもたれてしまっている。これもまた、言葉では描き切れなかった現実の一側面であろう。

語り得ぬその深淵にまなざしを 
われらの歌で言葉を超えろ

自作短歌

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