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絶望のペルソナ

詩人はふりをするものである。

フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』を読んでいた時、この一節が目を引いた。ああそうか、と思った。詩人にとって経験とは、単に副次的なものに過ぎないのだ。

この一節に出会ってから、僕の書き手としての態度は一変した。身軽になった、とでも言えばよいだろうか。経験していることしか書いてはいけない、と今まで自分を縛っていた鎖が、その瞬間にじゃらじゃらと音を立てて断ち切られていくのを感じたのだ。

詩人とはふりをするものらしいので
きょうも手軽に絶望を演出

自作短歌

こんな短歌を詠んだこともある。
書き手は絶望を描く時、必ずしも絶望に陥る必要なんてない。ペンの手軽さが、僕らの絶望演出を後押ししてくれるはずだ。

これは勿論、書き手に限った話ではない。その時々に感じるべき感情に身を委ね、本来の感情を棄ててしまったことは誰しもあるだろう。このとき僕らは、「正解」の感情を表す仮面を手持ちから選び取って、何とかその場を凌いできたはずだ。
失恋した友人に同情を迫られたとき、先輩の愚痴を聞かされたとき、映画で感動する音楽が流れたとき、僕らはその都度最適解の仮面を被り、正しさに迎合してきた。ほんとに泣くほど感動したか?と聞かれたら解らない。ただ僕らは、ふりをしていただけなのかもしれない。その意味で僕らはみな、詩人になる可能性を秘めている。

なんとなく泣きたい気分になったので
プレイリスト〈かなしみ〉を再生

自作短歌

僕などは、ふだん生活していてあまり泣くことがないから、映画や音楽の力を借りてなんとか悲しみに浸ってみたりすることがある。泣いてしまう状況を作り出すための緊急措置だ。戦争映画なんかはうってつけで、実際泣きそうになる。人為的に引き起こされた涙腺の緩みが、僕の乾いた感情を喚起する。喚び起こされた絶望感は、仮面となって僕のもとに差し出される。
絶望のペルソナである。

ペルソナとは、ラテン語で「仮面」を意味する単語personaに由来する言葉だ。英語のpersonなんかはこの単語から来ているらしい。「人」を表す英単語の祖先が「仮面」だなんて、なかなか皮肉が効いている。

映画や音楽の力で泣きそうになる時、僕はしばしばその状況に興醒めしてしまう。なにしてんだおれ、という具合に。気づいてしまった時、出かかっていた人口涙は涙腺で停止し、流れることを知らずに朽ちる。仮面を被り続ける生活の中で、僕はほんとうの悲しみを忘れてしまったのかもしれない。焦燥。仮面を剥いでみる。けれどその下にも、そのまた下にも仮面はあって、ほんとうの顔には一向に辿り着けない。もう自分でも、これがほんとうの絶望なのか分からずに絶望している。だってそれくらいに、僕の感情は辻褄が合わないのだ。ちょっと前までは快活だった自分が、ふとした瞬間を境に暗闇に堕ち、絶望の味を嘗める。そんな事もしばしばあって、何も信じられなくなる感覚に陥る。

だから、涙が溢れて来て止まらない、みたいな泣き方をするとき、ああ良かった、僕はまだ人間でいられているのか、と思ってほんとうに安心するのだ。

絶望のペルソナにはもう満足した。今はただ、素顔にこびりついた何重もの仮面を剥ぎ取って、感情を謳歌したい。真に笑い、真に泣きたい。これがどこまで本音なのかももう分からなくなってきた。だからただ、心の赴くままに感じたい。あらゆる感情を。邪念を払って。ただただ純粋に。

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