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僕たちは美しくなろうとしてはならない

高校3年生の伊良刹那さんが在学中に新潮新人賞を受賞したことが話題になっている。三島由紀夫に影響を受けたと話す彼は、そのインタビューの中でこう語った。「美しい文章を書いてみたいと思った。」

ああ、またか。


果たして、ここで言われる「美しい」とはどういうことだろうか?僕は正直、いまだに近代文学に囚われている日本文学の保守的ないし権威主義的な部分に、半ば嫌悪感を覚えてしまう。美しくあろうとした文章が新人賞というタイトルを取ったという事実が、今の日本文学全体に渦巻くそうした部分を象徴的に示しているのでは、と邪推してしまう僕は、やっぱりひねくれすぎだろうか。

まあでもたしかに、「美しい」とされる文章はたくさんある。実際三島や漱石の文には、読者をうっとりさせるような美の魔力があるようにも思える。だから僕も彼らの文をよく読む。なんなら愛してさえいる。けれど僕は、そうした美の一元化に対しては、言い換えれば、皆が同じような「美しさ」を目指すことに対しては、やはり強い違和感を覚えてしまう。これは個人的な話だが、僕は型にハマった「美しい」文章を目指すことに対しては、常に批判的でいたいと思っているのだ。
僕の中にはずっと、すべての言葉に公平に与えられた美に対する憧れがある。すべての言葉は、誰かによって発せられた時点でその美しさを担保されるのだ、と僕は本気で信じている。これはもちろん、僕がヘイトスピーチや誹謗中傷を支持するということなどでは決してないが、僕は今でも、言葉が誰かによって世界に投げ出されるというその現象に、その神秘に、ただただ震える。

だから僕は、伝統的な美、あるいは権威によって塗り固められた画一的な美の基準に、猛烈な勢いをもって疑問符をぶつけたい。すべてのことばの美しさを公平に描き、すべての「美しい」とされてきたものをひとつずつ問い直していきたい。

美は決して、美しくあることだけが全てではない。「美」はあるいは、すべてのものに公平に与えられたひとつの可能性である。だから僕は、すべての文になんらかの形での美しさを見出す。すべての言葉に宿る美の可能性に、めまいがする程の衝撃を受ける。だから美は、目指されるものではなく発見されるものなのだ、と僕は言いたい。美しくない文章など無い。そこに書き手がいれば、その文はいつだって美の可能性に満ちている。そこに美が無いと思うのは、ただその美が発見されていないというだけなのだ。だから美を目指すな。美しくなろうとするな。もう十分、僕らは美しいのだ。

たぶんこの考えが、僕の中でのひとつの一貫した態度になるだろう。反権威を掲げなければ、僕が文を書く意味など無いのだ。

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