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嫌われ婆の呪い

そろそろ暑くなってきたから怪談話というわけではなく、自分自身の幼少期に思いを馳せた、少々ノスタルジックな話ですので、怖い話が苦手だという方も安心して読み進めてください。怖い話を期待した方はごめんなさい。
僕は仕事柄、絵空事のようなプロジェクトをどのように現実的で実行可能なプランに落とし込んで提案するのかというリアリスト的な能力が重要なのですが、「発想が枠に縛られてやしないか」とふと思い至ることがありました。常識から逸脱した大胆な発想って自分から生まれてこないなって。これまで大胆な発想を求められることもなかったので、別段気にしたことはなかったのですが、トモエで子どもたちの遊ぶ姿を見ていると、なんだか急に気になりだしてしまったのです。
だって、子どもの発想って自由で突拍子もなくて、そしてとっても面白いんですもの。


「ねばならない」の呪縛

自由で大胆で、とてもユニークな遊び方をする子どもたちに驚かされるのは、きっと「ねばならない」がないから。大人が考える常識の枠を超えて、楽しいこと、やって見たいこと、自分の思うがままに動いている。これを逆説的に自分に置き換えてみると、「ねばならない」があるから、発想も限定されてしまうのではないか。「こうしなければならない」という呪縛はいつ植えつけられたのだろう。仏教系の幼稚園で?公立の小学校?公務員の親の教育方針?それとも新入社員研修?心当たりがありすぎてもはや解析不能です。
先日幼稚園の園長に、1歳頃がもっとも刺激を吸収しやすいという話を聞きました。もしかすると、自分の1歳頃に何か呪縛のヒントがあるのではないかと振り返ってみると、母方の曾祖母に行きついたのです。


曾祖母の愛

僕が生まれた当時、父は公務員、母は地元の建設会社で働いていました。母は産休後職場復帰したのですが、年子の妹を身籠ったため出産前に退職しました。祖父は若くして亡くなっていたので、祖母も働いていました。そんな状況なもので、僕はというと、母方の曾祖母に3歳くらいまで預けられていたそうです。
曾祖母はマサヨと言いました。明治生まれで、曾祖父のところへは後妻として嫁いできたもので、僕とは直接的な血の繋がりはありません。幼少期によく聞いたのは、満州から逃げ帰ってきた話と、子どもの頃指をナタで切ったけど一晩中抑えていたらくっついた話。血の繋がらない息子(祖父)を若くして亡くし、半身不随だった旦那(曾祖父)も続けて亡くし、母と祖母と曾祖母の女所帯で長らく暮らしていたそうです。だからでしょうか、男児が生まれたことでマサヨ婆は相当喜んだのだと聞きました。そして自ら率先してひ孫の面倒を見たのだとか。
マサヨ婆は決して周囲の大人たちからの評判が良い人ではありませんでした。嫁いびりもしていたようですし、地元では町内会長やら老人会長やらを務め、強面ババアとして恐れられていたそうです。そんなマサヨ婆はひ孫の僕を溺愛してくれたようで、成長してからも、妹たちとの扱いの差を感じられるほどでした。それにも関わらず、幼少期の僕は当時流行っていたアニメ・北斗の拳の有名なセリフを曾祖母に吐くのです。「お前はもう死んでいる」と。大人になった今、そのシーンを想像してみるに、冷や汗どころか肝も冷やしそうです。

あるとき、妻とそんな話をしていると、妻は「なるほどね」と何か得心したように呟いたのです。「親が近くにいなくても、ひいおばあちゃんに愛されていたからコウスケには自己肯定感の芽があるんだね」と。今になって改めて曾祖母の愛を感じたのでした。


呪いという名の宝物

同時に思い起こされたのは曾祖母の教育ついて。「ギッチョ」「カタワ」「ツンボ」「シナ」など、今では放送禁止であるこれらの差別用語を遠慮なく使い、恐らく左利きだった僕は右利きに無理矢理矯正させられたのです。その名残か、今でもお箸やペン、ボールを投げるなど目立つもの以外の無意識のものは大抵左手で行っています。
明治生まれの曾祖母の教育は利き手の矯正にとどまらず、「男子厨房に入るべからず」「ならぬものはならぬ」などなど、明治民法家父長制度丸出しの戦前の教育をインストールされました。幸い、3歳以後は曾祖母と離れて暮らす機会があったおかげで、(当時の)現代っ子であった母により、炊事洗濯など一通りできるOSにバージョンアップされました。
バージョンアップされたにも関わらず、ここに来て呪縛として感じてしまうのは、小鳥が初めて見たものを親と思い込むように、1歳前後の多感な時期に深層心理に対して相当な刷り込みがあったのではないかと思い至ったからです。そのプリント行為は、きっと両親も知らないことなのだと思います。曾祖母自身の貧しかった幼少期の体験や、満州での悲惨な体験、そんなダークサイドな話をまだ善悪の区別もつかない乳飲児に、きっと寝物語として聞かせていたことでしょう。記憶の朧げな幼い脳の、隅の隅にこびり付いた小さな小さな黒いシミ。きっと曾祖母には悪意はなく、ただただ愛ゆえに擦り込まれた呪い。
もしかすると、血の繋がらないひ孫に自分の生きた証を残したかったのかもしれない。単に「私を忘れないで」というメッセージだったのかもしれない。そう考えると、大好きだった嫌われ者のマサヨ婆の呪いは忌み嫌うべきものではなく、なんだか美しい宝石のように思えました。そして、まるで曾祖母が自分の中で生きているかのように感じ、右利きの自分のことさえもなんだか愛おしくなってきたのです。彼女の生きた証、哲学は世界中で僕の中にしかないのだから。


呪いを言祝ぎ(ことほぎ)に変えて

マサヨ婆呪いは、陰陽師のようにお札を使って消し去れば良いというものではない気がします。今回、呪縛があることに気づいたことが大きな第一歩で、今後意識して行動していくことで無意識下にあった呪縛を少しずつ解きほぐしていくことができるのではないかと思います。
宝石のようなこの呪いに縛られるのではなく、言祝ぎに変換することが、代々絡みつく見えない鎖を断つことに繋がるのではないかと感じます。やっぱり、幼少期における一挙手一投足は後々にまで多大な影響を及ぼすのですね。

そうだ、次に帰省したときにはお墓参りに行こう。この一連の流れをマサヨ婆に報告してみよう。娘や息子ら次の世代には呪いではなく、ご先祖様からの宝物として受け継いでもらえるように。「ねばならない」に囚われるのではなく、自由な発想の中のスパイスとして活用できるように。

ありがとうございます!これを励みに執筆活動頑張ります!