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学習支援ボランティア3年目に思うこと

私は学部3年生の夏から地域の学習支援ボランティアに参加している。
以前、初めてお話しする方に「なんでこのボランティアをやっているの?」と聞かれたときに「よくわからないけど、私は結構このボランティアに入れ込んでいるんですよね。」と答えていた。

「なんで入れ込んでいるの?」という質問にはうまく答えられなかった。
「子どもたちにとっても居場所だけど、私にとっても居場所なのかもしれないです。」とは言った気がする。

そこから「なぜ私が学習支援ボランティアに入れ込んでいるか?」「なぜ学習絵支援ボランティアは私にとっても居場所なのか?」ということを少しずつ考え、いくつか答えが出た。

なぜ私が学習支援ボランティアに入れ込んでいるか?

1つ目:自分が貢献できているという感覚があるから

「貢献できる機会を与えてもらっている」と言った方が正しいかもしれない。

元々個別塾でアルバイトしていたこともあって、勉強を教えることは、苦手なことが多すぎる私の中の数少ない得意なことの1つだ。
それだけでなく、ただの大学院生なのにワークショップの司会や社会人の方との意見交換など、いろいろな挑戦の機会をいただいている。

「居場所づくり」とは、もしかしたら助けたい人と助けてほしい人をマッチングさせることなのかもしれない。
助けられる側はもちろん、助ける側にとっても居場所なのだ。
行き過ぎるとトラブルに繋がるが、「必要とされたい」という感情は誰にでもあると思う。

私は、何か自分が貢献できていないと、この場所にいていいと思えないことがよくある。他人に無条件に愛されることがよくわからない。
そういったことがあって、貢献できている感覚がないと私の居場所だと感じられない。そもそもこの考え方は修正していきたいと思っているが、今の時点では難しい。

ではなぜ、学習支援ボランティアで貢献できていると感じられているか?
それは、3年弱やってきて「こういう大人もいるよ~」と人生サンプルの1つとして子どもと接することだけでも学習支援に通ってもらっている意味があると思えたからだ。

むしろ、普通に生活していると子どもが普段関わるのは両親と学校の先生と習い事の先生くらいで、サンプル数としては少なすぎると感じる。出会う大人の数は、選べる選択肢の数に直結するのではないだろうか?

そう考えると貢献のハードルがすごく低いので、だんだんと無条件の存在肯定に近づいている感覚がある。
「これだけ頑張らないと価値がない」「うまく教えられないと価値がない」から「参加するだけで価値がある」へ。

”いい意味で”ボランティアに期待しすぎないでくれている、かつ信頼してもらっているという感覚があるからこう思えるのだろう。

2つ目:好奇心が強い大人が集まっているから

ボランティア団体の人たちは私が自分の考えを述べたときに「おもしろいね!」とよく言ってくれる。
お世辞ではなくて、本当にワクワクした顔でそう言ってくれる。
私はそれがとてつもなく嬉しいんだということに最近気が付いた。

本当に高校生から定年退職されている方まで、年齢も職業もバックグランドも全然違う方々がボランティアとして参加されているが、皆さん好奇心がすごく強いなと感じる。

ボランティア団体の大人たちは「よくわかんないけどおもしろそうだからやってみようよ!」のパワーがすごい。そして実力も伴ってらっしゃるのでそれでなんとかなってしまう。

私は妄想が得意で、普段から変なことばかり考えているらしい。口に出してみると友だちには「そんなこと考えてるの?」「考えすぎだよ」「変だよ」と言われる経験が多くて、私が考えてることは変だからあんまり口に出さない方がいいということもなんとなく思っていた。

それを勇気を出して口にしてみたら「おもしろいね!」と言ってくれる大人たちに出会えた。20歳くらいになってやっと出会えた。もっと早く出会いたかった。

大げさだけど、これが多様性を認めるってことなんじゃないかなと思う。
(自分に実害がない範囲で)自分と違う考え方の人を否定するか、おもしろいと思えるか。

否定してしまう気持ちも私はわかる。
私の母は心配性で、私の中にも母の血は流れている。
好奇心旺盛×心配性なのでいつも自分の中に葛藤がある。
そんなときは「心配事の9割は起こらない!」と自分に言い聞かせている。

ボランティア3年目で思うこと:子どもたちにとってどんな大人でありたいか

子どもの意見に「おもしろいね!」「やってみようよ!」と言える大人になりたい。
さっきも言ったように、心配性な私を少し抑えて、「でも」と言わずに素直にワクワクしたい。

私は失敗するのがすごく怖い。さらに言えば、失敗して他人に嫌われるのが怖い。
ゲームはステージに挑戦しないと経験値を上げられない。
でも私はステージクリアできないのが怖くて、挑戦できない。
そういう感覚。

挑戦しなければ、「挑戦していないだけで、挑戦したら成功できるかも」という可能性を残せるからなのかなとこれを書いていて思った。

こんな感じで今年23歳になってしまう私は、子どもたちには失敗をたくさんして失敗が怖くなくなってほしい。
では、どうしたら失敗しても大丈夫と思えるのか。
それはゆるぎない土台や安全基地があるかどうかだと思う。

私は失敗すると、自分が全部だめなような気がしてしまう。
土台がぐらぐらだから。

子どもたちに安全基地と挑戦の機会を作りたい。
「失敗してもここに戻ってくれば大丈夫だから一歩外の世界に踏み出してみようよ!」
「失敗したら私が責任を取るから大丈夫だよ!」
「一緒に挑戦しようよ!」
と言ってあげたい。

「自分のしたいことがわからない」
「ついつい相手にとっての正解を探ってしまう」
こんな私が出会いたかった大人に私がなりたいなと思う。





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