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現代社会のロマンティクコメディとして見る『私は最悪。』

監督・共同脚本:ヨアキム・トリアー
共同脚本:エスキル・フォクト
主演:レナーテ・レインスヴェ、アンデルシュ・ダニエルセン・リー

~STORY~
学生時代は成績優秀で、アート系の才能や文才もあるのに、「これしかない!」という決定的な道が見つからず、いまだ人生の脇役のような気分のユリヤ。そんな彼女にグラフィックノベル作家として成功した年上の恋人アクセルは、妻や母といったポジションをすすめてくる。ある夜、招待されていないパーティに紛れ込んだユリヤは、若くて魅力的なアイヴィンに出会う。新たな恋の勢いに乗って、ユリヤは今度こそ自分の人生の主役の座をつかもうとするのだが──。

https://gaga.ne.jp/worstperson/


監督の過去作から見る


まずはヨアヒム・トリアーの作風について説明します。彼は長編を5作撮っていて、私はそのうち4作を見ているので、それを紹介したいと思います。

彼は、人間関係、家族関係の中での人の役割や生き方に着目して、その人の内面を徹底的に覗き込むのが上手い監督です。

 長編2作目の『オスロ、8月31日』は、薬物依存症の男が更生プログラムでオスロに戻ってきて人に合う2日間を描く話。OPが入水自殺未遂から始まって、その後に家族を持った友人に出会ったり、元カノに出逢おうとしたり、カフェで幸せそうな人の話が耳に入ってきながら、周囲と自分を比べていく様子や、自分が34歳にもなって薬物依存症というハンデだけ抱えて、0からのスタートも難しい現実と折り合いをつけて街を彷徨っていきます。その取り返しのつかなさや、閉塞感を独白のナレーションも混えて、主人公がオスロの街を漂う作品です。

 長編3作目の『母の残像』は、写真家であったが亡くなった母親の個展を開くことになり、父や息子から見た母の見え方、他の人から見た母を追っていく話。一人の身近な存在について、色んな人の視点から見ることで、母、女、妻としての多面性が浮き彫りになっていく様子が、モンタージュの力によって倍増している作品です。

 長編4作目の『テルマ』は抑圧的な両親のもとで育った少女が、大学で同性に恋をしながら、超能力に目覚める話。両親の信仰心に抑圧されていた彼女が、大学で恋をして新しい世界を発見するメタファーとして、超能力に目覚めていくという自分の発見をダークに描いた作品です。ちなみに私の2019年映画ベスト1なのでぜひ見てみてください。
 
 いずれの映画も、身近な他人の中での自分自身に着目しつつ、新しい自分を見つけようともがく話です。ちょうど転職、近親者との死別、一人暮らし、結婚・出産など、人生の節目で抱える葛藤や心の迷いを、共感させながら撮るのが上手い監督です。

 その視点で『わたしは最悪。』を見ると、浮気をする主人公のユリアの迷いはもちろん、彼氏のアクセルの葛藤にも寄り添い共感できる話で、”わたしは最悪。”と言いながら、全員を応援したくなるような話になっていて、監督の優しい眼差しを感じることができます。

ロマンティックコメディの視点から見る

 次に、”​​ロマンティックコメディ”の文脈で、『私は最悪。』(2022) を見ていきたいと思います。公式HPの監督インタビューで、本作がロマンティックコメディの側面を持っていることを指摘した上で、このように言及しています。

「僕たちは選択肢がとても多い時代に暮らしていて、結局は何を選べばいいかわからないと感じている。長期にわたるパートナーを見つけるには複雑な時代だ。でも、それには一種の自由という前向きな点もあるよね。現代の女性は結婚する必要も、ある程度の年齢で子供を持つ必要もない。その一方で、僕たちは恋愛において成功しなければという、大きなプレッシャーを感じている。難しいね。自由は複雑だ! これが本作のキャッチフレーズになりそうだね」

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 まさにこの時代は複雑で、ロマンティック映画は多様化しています。女性自身の生き方や恋愛が一人一人違いすぎて、今までのように”女性への選択肢の提示”を示していたロマンティックコメディから、”観客に答えを委ねる”ようになってきたと思います。現代のロマンティックコメディは、男に純情でもいいし、振り回してもいい、性欲の対象とだけ見ても良い。恋愛対象は男性でも女性でもいいし、自分を男性だと自認しても良い。家庭の主婦でも、仕事を優先しても、子どもの母親としても、一人で生きてもいい。あらゆる選択肢が、映画の中では存在するのではないでしょうか。
 選択肢の多い現代社会で、とりわけ一大ジャンルであるロマンティックコメディでは、あらゆる女性像が飽和状態。過程の女性像は違えど、最近ではラストを現状維持のまま肯定して、観客に委ねる映画が多いように感じます。

 コラムニストの山崎まどかさんも、『フィラデルフィア物語』を引き合いに出してこう述べています。

「実際のところ、ロマンチックコメディにおける選択の根本も、正しい相手を選ぶ、ということではなく、自分の心の声を聞いて、それを見極めるというところにある。」

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その無限の選択肢の中で、何を選ぶのかというのがこの映画の主題のように感じます。さらにその選択肢についても、監督が公式HPで述べています。

 本作が生まれたきっかけについて、ヨアキム・トリアー監督は、「今この時、僕の人生において、心の底から語りたい物語は何だろうと考えた。そしたら、こんな人生を送りたいという夢と、実際はこうなるという現実に、折り合いをつけるというストーリーが浮かんだ。そして、ユリヤというキャラクターが閃いた。自然体の女性で、自分を探し求めると同時に、自分を変えられると信じている。でも、突然、時間と自分自身の限界に向き合うしかなくなる。人の一生で出来ることは無限ではないけれど、僕は彼女の強い願いには共感している」と語る。

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 女性の話ばかりしてきましたが、この脚本を書いて撮ったのは男性です。しかしそこに違和感はあるのでしょうか?この複雑な時代において、とくに一歩先の未来を映し出す映画という媒体において、男性や女性の話である以前に、選択肢の多い現代社会で自分の答えを見つけていく人間の物語を書いたのだと思います。

 私はこの映画を見た人と、是非話し合ってそれぞれの生き方について語り合いたいと思っています。


参考文献


・瀬川裕司(2020)「映画講義ロマンティック・コメディ」平凡社新書
・岩田康平(2022)「公式パンフレット」松竹株式会社事業推進部
・公式HP(https://gaga.ne.jp/worstperson/
・IMdb(https://www.imdb.com/title/tt10370710/?ref_=nv_sr_srsg_0

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