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マイノリティに誇りを

普通という言葉は好きですか?


私に本当の意味で自我が芽生えたのは、大学を卒業してからである。おそらく24歳前後。それまでどうして自我がなかったのか、いや、気付かなかったのか。気付こうとしなかったのか。


自分がやりたいと思ったこと、言いたいと思ったこと、を素直に行動に移せる人が羨ましかった時期がある。しかし、自分が何を思い、何をしたいのかわからなかった。


環境により芽生えなかった自我

自由奔放で親を困らせていた姉を近くで見ていた幼少期。親を困らせるのは良くないと思い、怒られることがないよう、いい子に育った。つまり、自我を出さず、求められる行動を心掛けていた。


「手がかからなくていい子」と言われることは、いい子という枠からはみ出さないようにしなければいけない、というプレッシャーでもあった。ほんの少しのわがままさえ芽を潰されていたから、欲なんてものは、一つも出さずに生きてきた。


大学時代、ゼミのメンバーとたくさん話をする機会があり、いろんな考え方を知っていった。知れば知るほど、みんな可愛い女の子で、少しファンタジーのある夢を持っていた。それを私は持ち合わせていなかった。

ゼミの中でプレゼンしていくうち、私の考え方や捉え方に対して「そんなふうに考えるのすごい」と言われたり、興味を持ってくれていた。
(※英文科だっため、みんな少しアメリカナイズ。日本人らしい「普通」に強く囚われてはいない。)

当時の私は、みんなと同じような感覚でいたかった。みんなと同じであることが、枠からはみ出さないことだと思っていた。


みんなと同じ❝普通❞になりたかった。



自我の芽生え

そんな自分を受け入れられず、できるだけ求められる行動をしていた。
しかし少しずつ、他人から求められている像と、自分自身にギャップが生まれ始めた。求められている像に対し、「私はそんな人間じゃない」と思うようになり、自我を出したくても出せない、出し方がわからない、そんな時期を経験した。


そんな中で、他人と考え方が違うということ、自分は変わり者なのではないかということを考え始めた。自分は変なのか、そう考えていると、どんどんマイナスな方向へ向かう。

それでも、この他人軸と自分軸の狭間で、自分が何を感じ、何を考え、何をしたいのか、ということを意識して考えるようになった。

そして、自分という人間は、どういう人間なのか、と自問自答を繰り返す日々を過ごした。


結局「普通」とは何なのか

普通の定義は何なのだろうか、と考えるようになった。普通とは誰が決めたのか。それを考えていくと、普通というのはなんとも曖昧な言葉である。普通というのは、その発言者の定義に過ぎない。ぼんやりと、普通=一般的 というものが成り立っている気はするが、一般的という言葉もまた、人それぞれの定義である。多数派ではあるだろう。

一般から外れたからといって、周りに迷惑をかけているわけでもない。空気も読んで行動する。何の問題があるのだ、と自分を肯定できるようになった。


「普通」と思われるよりも、個性を大切に

人は集団になれば❝普通❞を装い、個人になれば個性を発揮するのである。集団でその個性を出さないことは、きっと空気を読んでの行動である。

つまり、人はそれぞれ個性を持ち合わせているということ。
その個性を知ることができるかどうかは、相手との関係性によって変わるだろう。

そこまで考えた結果、みんなと同じになりたかったはずの私は、普通という言葉に囚われなくなったのである。むしろ普通というのは、表しかわかっていない状態であって、個性があると言われる方が今では嬉しいといっても過言ではない。これはもう自我が爆発しているのだ。


「普通になりたい」と言う人と数人会った際に、このような話をすると「確かにそうかもしれない」と納得してくれていた。
周りに合わせることも、集団生活の中では必須である。しかし個性があることは、なくしてはならない、その人の魅力的な部分である。

そう思えるからこそ、人と比較することなく、自分の個性を大切にできるようになったのである。

これからも自我を爆発させていこう。

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