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桜咲く、いまだ人付き合いにモヤる春

近所のお寺では毎月一度、骨董市が開かれている。愛犬を連れて久しぶりに顔を出したら、もはや桜が咲き始めていた。早すぎて、気持ちがついていかない。

今年の私のテーマは「ドライに生きる」なのだけど、なかなかうまくいかない。山羊座A型はちょっとやそっとではドライになれないのかもしれない。人付き合いに関してあれこれモヤっては、ああ、そういうことかと過去の自分に気づく。相変わらずそんなことをして、早すぎる春にもがいている。

もう20年以上前のことだけど、一人で行きつけの飲み屋に行ったら、年下の飲み友達に久しぶりに会ったことがあった。彼女は当時25歳くらいだったと思うが、「来週からアメリカへ行く」という。「へえ、何しにいくの」、と聞こうとしたら、彼女は言った。

「何しに行くのって聞かないで。目的がないと外国に行ったらダメとかないよね?誰もが目的を持ってるわけじゃない。別に語学だって身につけられないかもしれない。でもそれでもいい。私は行く」

その時には、何もまだ聞いてないじゃん、と憤然としたが、あれから20年以上経って、わかったことがある。

私って、人をそういう気持ちにさせるのかもしれない。

「自己実現」こそ人生の目的だと思って子どもの頃から生きてきた。それが人間として当たり前のことなのだと信じて疑わなかった。
人は誰にもそれぞれ才能があり、それを開花させて、他の誰にもできないことを成し遂げるべきだ。それこそが幸せであり、人の役にたつことなのだ。
なんて、思っていた。若い頃は。

実際、私自身が自己実現したかどうかといえば、想像の半分くらいといったところか。半分もいってないか。
紆余曲折を経て、何が自己実現なのかすら曖昧になっている。

自己実現と幸せとはまた別の話だ。それに気づいたのは、本当に最近のことだが、パッと気づいたわけではなくて、仕事をして、結婚生活を経験し、子育てをしながら、徐々に気づかされたという感じだった。

きっと私は、他者に対して、「自己実現を目指すべき」といった圧を振りまいて生きてきたのだろう。だから飲み屋で会った年下の女友達は、私を牽制したのだ。
「何しに行くのって聞かないで」と。

なるほどなあ、あの人は、そう思っていたんだろうな。
じゃあつまりあのママ友も、そう感じたのだろう。
いろいろと思い当たるフシがあって、合点がいくのだった。

空気が読めて敏感だと自負していたけど、基本的なスタンスが「自己実現圧」だったのだから困ったものだ。なるほどなるほど・・・

だけどさ。しょうがないんだ、これは。
だって「柴漬け食べたい」の世界観で育ってきたのだから。

などと、ほころびはじめた桜を眺めながら、ため息をつく。

散歩にはいい季節になってきた。
こうして行きつ戻りつし、明日を夢見て生きる。相変わらず、自己実現を求めている。おそらく、最後まで。



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