教師は聖職でないし、学校は聖域でない。

 昔は、教師は聖職と言われていたことがあるらしい。学校も、社会とは隔絶した場所として考えられていた節がある。聖職がいるのだから、その場所も神聖視されていたのであろう。
 今となっては笑い話であるし、もちろん、昔であっても、普通の人間が教師という役割をし、その人間がいるだけなのであるから、教師は聖職でないし、学校は聖域ではない。
 教師自身にしても、教育学部を出て採用試験に通っただけなのに、なぜそれで聖職と呼ばれるのだ? と疑問に思って、肩の荷が重かったことであろう。
 保護者としては、子供を人質に取られているようなものなので、言いたいことも言えなかったりする。中には、そんなことお構いなしにモンスターとなる者もいるが。
 これらの呪縛を解くには、教師はただの職業の一つであり、他の職種と比べて偉くもなんともない、という認識を全員が持つこと、そして、学校は学ぶ場であり、聖域でも何でもないという認識も持つことであると思う。
 そうすれば、教育サービスが不適切であれば指摘もできるであろう。
 学校であるからという理由で、いじめがおきたとき警察まで介入させるのはちょっと、と抵抗する者がいるらしいが、いじめは犯罪であるので、適切に対処する必要がある。それに、子供に、いじめは犯罪であると分からせる切っ掛けにもなる。
 また、外部に知らせていないと、学校、教育委員会は、隠蔽工作に回るので、それを防ぐことにもなる。校長や教育委員会としては、それがいじめであったとしても、認定してしまうと余計な仕事が増えるので、隠蔽したいのは当然である。誰だって、面倒なことはしたくない。
 教師に全人的指導などはできないし、望んでもいけない。教師は、教科の指導に集中する。いじめという犯罪が起きても、犯罪解決のプロでない教師に、解決は無理である。よって、外部機関に協力を依頼すればよい。教師の負担も減る。
 私は、学校は、極論すれば、予備校や学習塾のような機関になればよいと思っている。とって、主要教科でない音楽や体育をやめろとは言わない。指導内容、方法を改める点はあるが、音楽は人生を豊かにするし、自分の体について知り、健全な心身を保つことは何よりも大事なので、大いにやれば良い。

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