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よかったさがしと赤ずきんちゃんの夢の話。

5歳の娘はもうずっと長いこと「葛藤」の只中にいる。
娘は幼い頃の私にとてもよく似ている。
頑固で意地っ張りで見栄っ張りで自己主張が強いのに、ものすごく恥ずかしがり屋なのである。誰よりも愛されたいのに、愛されたいと素直に表現できないから、いつも本心が上手く伝わらなくて、なんだかいつもうまくいかない。頭の中にいつでも自分だけの空想が渦巻いていて、その世界にどっぷり入り込んでいたい。で、周りが見えなくなった末に兄弟喧嘩になったり怒られちゃったりする。そのくせ学校では大人しい優等生であることを頑なに貫く。

そこから何をどう経てどうなったから44歳の私がこんなに他人に感じ良く(自分で言う)なれたのか、実は私にもよくわからない。私は、細かいことをいつまでもネチネチと憶えている割に、ところどころ大事な記憶をすっぽり落とす癖がある。
なので、今のところ私が娘にできることは「わかるよ。ものすごくわかるよ。」と言い続けるだけなのである。いつか抜け出し方を思い出せたら教えてあげたい。

最近ひとつ思い出したことがあって、娘に毎日しつこく話している。
「よかったさがし」のことだ。
子どもの頃、テレビアニメの「愛少女ポリアンナ物語」に夢中になった。
そのままの流れで、ポリアンナ物語の本も何十回と繰り返し読んだ。
世のたくさんの子どもたちと同じように「よかったさがし」に心を奪われて、朝から晩まで「よかったさがし」に奔走した。

「よかったさがし」のいいところは、「よくないことさがし」をしなくて済むことだ。娘はどうしてもまず「いやなこと」を探してしまう。頑固ゆえにそこから視線を外せなくて動けなくなってしまう。出来事は一つでも、どこを見るかは自分で選ぶことができるんだよ。
それに何より「よかった」と思うためには理由が必要、ってところが本当によい。理由は大事だ。理由がないとグラグラする。
私が「好き」と「好きじゃない」の理由を考え続けることで自分を作ってきたみたいに、気持ちに理由を見出して自分で選択をし続ける人生を生きてくれるといいなと思う。

とはいえ子どもたちは私とは全く別の個人なので、私のやり方をそのまま採用してうまくやっていけるとは思わない。だからそれぞれの「途中」を丁寧に観察していこう。

小学校に上がる前くらいだったかな、何度も何度も同じ夢を繰り返しみていた時期がある。
赤ずきんちゃんが森を歩いているところを、遠くからずっと見守るっていうただそれだけの夢。お母さんとのやりとりも見ていないし、おばあさんの家にたどり着く前に目が覚めてしまう。楽しそうに歩く赤ずきんちゃんの後ろをオオカミがこっそりついて来ているのを知りながら、私は見ているだけで声も届かない。
子どもと暮らすようになって、その夢のことをよく思い出す。
子育てに似ているのかな。見ているし、知っている。でも手出しして物語を変えるできることなんてできない。落とし物をこっそり拾ってカゴに戻してやるくらいはできるかな。

何から何まで私に似ている気がする娘と、似ているところも似ていないところも両方あるように思う息子たち。
子どもたちを見ていると、こんなに小さい頃から人は自分だけの成長の仕方を自分で選んで歩いていけるんだなあと感じます。自分だけの物語を始めてる。
きっと、娘は私のアドバイスなんてほとんど耳に入っていないんだろうな。
そう思うととても頼もしいし気持ちが軽い。

「よかったさがし」は私の一部になって、もうすっかり意識することもなくなったけれど、私の娘がこの子でよかった。


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