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変化の渦の中でもやもやしてないで、全然関係のない話をしようかな。

休校が始まってからの自粛生活も3ヶ月目に突入し、なんだかこっちが日常なんじゃないかと思うくらいの毎日。

長男はすっかりオンライン学習のリズムを掴んで朝イチで課題をこなし、毎週のオンラインホームルームを楽しみにしています。のりさん(夫)が1日に何件もこなしていたミーティングも全てオンラインになったし、たまの飲み会もオンライン。移動しなくていいし、お酒を飲んでも帰りのタクシーの心配をしなくていい。
不謹慎を承知で言うと、コロナが未来をものすごい勢いで引き寄せてきました。これはとても良いことだなと思っています。

私はというと。元来家にいるのがとても好きだし、実を言うと自粛してなくたって外で誰かと会うことなんて月に1回か2回程度だし、お酒を飲みに出かけるなんてもはや年に1回あるかないか、という生活を送っていたので、特にこの生活にストレスは感じない部類ではありますが。
子どもたちが寝ているまだ暗い時間にもぞもぞと起き出して、毎朝「今日こそは何か書こう」と思うのだけれど、全く書けないでいます。

怒ったり恨んだりするよりも軽やかにヘラヘラしていたいという思いが信念としてあるので、基本的にはとても明るい気持ちで暮らしています。
でも、当然のように大きな影響を受けている会社のこの先を思ってふと気持ちが沈んだり、何より世界中でたくさんの人が苦しんでいるという事実が澱のようにずっと心の底に漂っていて。すぐに傾きそうになる私の細っこい棒を砂にまっすぐ挿し直しながら毎日を生きている感覚。細っこい棒は毎朝起きるとちょっとだけ傾いてる。

書き始めると意外と書けちゃうけど。
でもどうしたって、今の状況を軽やかにヘラヘラ書くことってできない。
だからやっぱり私は関係のない話をしたいです。

私はとても食い意地が張っています。
それはもう、執着と言って憚らないほどに。
たくさんは食べられません。胃のキャパシティの問題で。
だからこそ執着しているのでしょうね。
この先、運よく大きな病気もせず一生元気に食べられるとしても、私に残された食事の回数はざっくり見積もって4万回弱。おやつはその半分とか。有限なんです。泣けます。

常々、自分の体は「食べたもの」と「言葉」でできていると思っているので(言葉の話は置いておくとして)、食べるものはとても大切。
食べたものが体になるイメージは子どもの頃から映像として感覚として感じていて、着色料たっぷりのオレンジジュースを飲みながらお腹の中がオレンジ色に染まっていく気がしたり、油が多いと体の内側にねっとりとした膜を感じたり。みんなそうかな。

美味しいもので体を作りたいという願望も強いですが、不味いものを体に入れたくない、それで大切な一回分の食事を無駄にしたくないという執念は自分でもちょっと引いちゃうくらい。
とはいえ、私は食に崇高な理想を抱いていないし、良し悪しは頭ではなく舌で決めたいので、化学調味料を使っていようが、無農薬じゃなかろうが、ジャンクだって全然構わないんです。その時その時の「食べたい」にピタリとハマるピースであれば。
大体その勘は当たるのですが、時々がっかりするほど美味しくない食事に出会うこともあって、ああ修行が足りないな、私。と思います。体にそれがある間(翌日いっぱいくらい)ちょっと落ち込みます。もっと鼻が利く人になりたいです。精度を高めたい。

美味しいもの、たくさん食べたいな。
旅先でしか食べられないあれやこれやも、とても恋しい。
最近は当然のように毎日三食自分の作るものを食べているので、そろそろ人が作ったものも食べたい。
結局こうなりますが、それでも関係ない話ってとてもいい。
明日はマガジンの続きも書こう。かな。




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