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悲しみに種を植えていく、こと。

前回の記事を書いた2日後、我が家の老猫しじみはすーっと消え入るように息を引き取った。
激しく苦しむのでもなければ、嘔吐も粗相もしないで、ただじっと静かに呼吸しながら、時々にゃあと私たちを呼んだ。大きなまんまるの目は子猫の頃と変わらず最後まで澄んでいて、ただその時を待っているようだった。
「いかないで」と「もういいよ」を行ったり来たりしながらたくさん泣いたけれど、結局私たちもしじみの強い覚悟みたいな空気の膜の中で一緒にその時を待った。
たぶん、とてもよい最期だった。

しじみが亡くなってから、私は毎日手を動かして続けることを始めました。
ずっとやろうと思っていたことだし、しじみが生きていても始めただろうと思うことではあるのだけれど、「しじみに背中を押してもらった」と思うことにしています。
しじみがいなくて悲しいから。

23年前、ほとんど前触れもなく母が突然亡くなったとき、東京でひとり暮らしていた私はいつもと変わらない元気な母と4ヶ月前に会ったきりでした。
別れの言葉ひとつもなく取り残されたとき、ああこれが絶望か、と思ったものです。

悲しみと後悔と虚無感に潰れてしまいそうだった私が、精一杯もがいて見つけた一手は「母の死に意味をつける」ことでした。
母がこの世を去ることで私に大切なことを伝えようとした、と思うことで、
母の死を勝手にポジティブなメッセージに変換することで、
世界の温度が変わったのを覚えています。

そのメッセージは、私の使命となり、生きる意味となったけれど、偉そうに書くほど大したものではありません。
大したことではないけれど、忘れたくないこと。
いつ人生が終わってもいいように生きるということ。想いを伝えるということ。
別に何だってよかったのです。
きっと大事だったのは「母の死」に意味をつけること、未来に続く種を植えること。

過去の出来事に結び付けておく感情や意味は自分で変えられるから。
悲しみのまま心に重石として置いとくか、種を植えて育てるかは私が決める。

しじみの死に種を植えて育てようとしている私は、ちゃっかりしていて図々しい。
逞しくて結構好きだなと思うのです。


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