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もう私にソーシャルメディアはいらないのかもしれない


先日、初めて記事をポストしてみましたが…


あたたかい心でお読みいただき、本当にありがとうございます…!

中には "スキ" やフォローまでしてくださったかたもいて…
この荒波のような社会の中にこんなにも優しいかたがいらっしゃるなんて、と胸がいっぱいになりました。

優しいあなたが今日も健康であるように、心から祈っております🪄




今回はタイトルの通り、最近のソーシャルメディアに関する自分なりの感想をアウトプットしてみたいと思います。



結論についてはタイトルの通りなので、ここから先は、そこへ至るまでのプロセスや理由、あるいは纏まりのない呟きを書いていこうと思います。

拙い思考をオープンにすることに強い躊躇いを感じるけれど、これも練習。
まずは逃げずに頑張ります。
決して "完璧で理想通りの私" ではないけれど。




書くことがない。


そもそものお話になりますが、私は普段生きていて自分の意見や経験について不特定多数の人々に聞いてもらいたい/認めてもらいたいと思うことがほとんどありません。

自分が何かを感じたり顧みたり愛したりする際に、わざわざ他人のジャッジは必要ないからです。

また、承認欲求もなければ、競争心もない。
プライベートや大切な持ち物を公開することもリスクだと感じます。

せっかく親切にしてくださるフォロワーさんがいるのに、もし自分が無自覚に何か傷つけてしまうような発信をしていたら… と過度に心配してアウトプットを躊躇うことが過去に何度もありましたし、逆に自分が好きなものや嬉しかったエピソードについて話した際に否定的なリアクションを取られれば悲しく感じることもあります。

もちろんこれらは現在のアカウントにサインアップしたときから理解していたことですが…
細心の注意を払って利用を続けることは想像以上に気を張る必要がありました。


心優しいフォロワーさんとお話することは本当に楽しいけれど、それ以外の誰かにも見られる可能性がある場所に購入品の写真を撮って載せたり、誤解を生まないよう常に気をつけながら文字を打ったりすることは、私にとって "ナチュラルな生活の一部" にはなり得ませんでした。
これは私の柔軟性や社交性が乏しいことも関係していそうです。

もしかしたら少し完璧主義すぎるのかもしれませんがそれも含めて今の私の気質なので、息をするようにすらすらと自分の日常をシェアしていくことは難しいと感じます。



ありのままの美しさは価値とされない。


本来の色からかけ離れたレタッチが施された観光地の写真。

"本当は教えたくない" お店をなぜか教えてくれる、テンプレート化されたアカウント。

減量や美容整形について延々と語る医師やフォトショップされた女性。

「昨日は知らない別の誰かが PR していたような…」と疑問を抱くお化粧品の広告の数々。


これらは、ソーシャルメディアの最も苦手な点のひとつです。

上手に使いこなせば楽しめるのだろうし、便利なのだと思います。
だけど私は不器用で、意図せず入ってくる不要な情報の山にくらくらとしてしまいます。

課金制度の影響拡大によって、フォローしてすらいない他人のトリミングされた人生のハイライトがフィードに頻繁に現れ、フォロワーさんの投稿や、まだ出会えていない誰かのピュアでリアルな装飾されていない日常は、私の目に届くことなく流されていく。

これは私にとってヘルシーな環境とは言えません。


鮮やかでなくても、普段と変わらない日常でも、感謝し、満足できる何かが必ずあります。
ドラマティックに見えないものも、本当はすべてが特別でドラマティック。
生きていることは本当に大変で、尊くて、良くも悪くも毎日が疲れてしまうくらいドラマだなあと感じるんです。

だから、偏りのあるハイライトがあるべき成功であると無意識に勘違いさせられたり、他人からの嫉妬の中に引き込まれたり、本質的ではない不安を植えつけられたりして、「ありのままの自分ではいけない」「何者かにならなければならない」「つまらないことを発信するのは無駄」といった強迫観念を潜在的に抱かせる環境には違和感があります。



「本物」の人間関係だけでいい。


はっきり言ってしまえば、私は、私を愛してくれない他人の人生にまったく興味を持てません。

もちろんこの愛は、大きく献身的なものである必要はないんです。
ただの人間同士としてのささやかな優しさ、無償の隣人愛を分け合えたら、それだけでも十分で。

だから、すべての情報がお金という価値として扱われ、計算式が生み出され、青い鳥は去り、愛よりもビジネスが圧倒的に重視されている今のソーシャルメディアの権力構造の中に存在していると、ただそれだけで息苦しいと感じてしまいます。

もし困っている人を見かけたら自分の持ち得るリソースを使って助けたい。
そういった綺麗な心の側面を人間は一定数持っているはずなのに、現代社会では本当にたくさんの人と関わることが可能になっていて、自分を守るためにいくつものコーティングをしなければならない。


そしてもうひとつ。
人間はそれぞれ別の個体ですから、私は他人を自分の思うように変えたいとは思いません。
自分にとっては考えられないような言動を選んでいる人々を見かければ当然傷つきはしますが、自分の倫理観とは合わない人もとすれ違ってしまうのが現代の情報社会ですから、その点は割り切ってスルーするように心がけています。

ですが最近周りを見ていると、他人に干渉しつづける人、他人の反対意見に執着しつづける人、他人の言動を直させようとする人など、とにかく自分以外の誰かについての話をする人がとても多いように感じます。
これらを一概に悪いものであると考えているわけではないのですが、自分軸で生きていたい私にそういった場所は少し窮屈ですし、前述したような過度な心配が始まって余計アウトプット不足に拍車をかけることになっては本末転倒です。


ありがたいことに、自分に良い影響を与えてくれるかたはインターネットの外側にも大勢いますし、お互いの違いを知ってもなお尊重し合えるような人間関係を私は選んでいたい。

私は聖人ではないから、すべての人を "平等に" 自分の輪の中に入れることはできないけれど…
その分大切な人たちと自分自身を、めいっぱい大切にできるように。


(*優しい人々の優しさを搾取すべきだ、情報に値段をつけるべきではない、といった極端な考えではありません。知る手段や機会が増えたことはとても健全で、インターネットの素晴らしい美点だなあと嬉しい気持ちです。言うまでもないことだとは思いますが、ここはパブリックな場なので念のため!)



心地良い感性の近くに身を置いてあげること。


ここまでつらつらと心のままに書いてまいりましたが…

適応能力がない、弱っちいだけだ、と言われればそうなのかもしれません。
今の供給過多な社会の中で、自分なりに学んできたはずのネットリテラシーも存分に発揮できているとは言えないでしょう。
このあたりのバランス感覚については今後もいろいろとトライアンドエラーをして、その過程で学んでいきたいと思います。(気が向いたらこうしてまた note でシェアしてみようかな?)


いずれにせよ私の心は、私の視界を、本当に大切に扱ってくれる人々や情報だけで守りたいと決めつつあるように思います。

世間から距離を置くことにさみしさがないわけではないし、自身の社会性の欠如を助長することに繋がると懸念する感情もありますが…
どうせ私が社会に適応しようと努力を続けても他の人々ほど上手にこなすことはできないだろうな、とこれまでの経験から学習して得た諦観もあります。笑


良くも悪くも影響を受けやすい分、自分が吸収したい感性の中で過ごすことは私にとって本当に重要。

今はまだアカウントを削除するなど外界を完全に断つことはしないだろうけれど、現在のプラットフォームでは、自分の気質としても、適性としても、今以上に無理に関わろうとしてしまわないよう注意したい。
自分のキャパシティを見誤らないこと。

そしてその余白を使って、愛する音楽やお花に触れたり、興味のあることについてもっと学んだり、読書をしたり、ヨガをしたり、セルフケアのための時間を増やしたい。


以上、終始散漫なポストとなってしまいますが、今回のアウトプット練習は、格好つけずこのような感じでふわ~っと終わりたいと思います🕊️



最後に: 優しいあなたは私の大切な人。


私は自己開示をしなくてもいいと感じるタイプの人間で、ただでさえ自分の世界に閉じこもりがちです。

だから、私の文章を読んでフォローや "スキ" をしてくださるあなたが、私の原動力となってくださっています。

拙い文章をこうして公開することも、自分のためとはいえとても勇気が要ることなので、どこか一部分でも好意的に受け取ってくださる優しさに、心が洗われています。


存在していてくれて、本当にありがとうございます。

優しいあなたが、今日も幸せとともにありますように。


After editing
Before editing



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