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幻聴と愛と斗争

ぼくは、幻聴と診断されている。
頭の中で、聴こえるわけではないが、身体的には自分の口から、保育園落ちた、よしの死ねと、おそらく「誰か」が歌っている。(水中、それは苦しいとゆうバンドの「保育園落ちた吉田、死ね」が元ネタ。)死ね、とゆう幻聴は、教科書通りだが、問題は、それを「愛」と思うかどうか、だ。

愛は親や、性愛のパートナーや、友達からだけのものではないだろう。見ず知らずの人とも愛をもって接することができる。ぼくも、ナンパはしたことがないけれど、JR新宿駅東口に立ってみるべきなのかも知れない。いや、今日行った図書館の司書さんや、スーパーの店員さんにも愛をもって接していただいいた。愛は、自己愛(ナルシシズム)に陥ることが問題なのであって、幻聴の例で言えば、自分とは、「自己」とゆう、この肉体を持っている、この精神だけのものではないだろう。例えば、通っている病院の前でタバコを吸っていたら、ちょうど、タバコが切れたタイミングで、二度、同じ、よれよれのおじいさんが来て、タバコをせがまれた。そのおじいさんも私にとっては「自分」である。(ちなみにおじいさんに五百円あげて、銘柄を聞いたら「わかば」とゆうヘヴィなタバコであった)これは、おそらく、ドゥルーズ=ガタリが、ミクロの政治学と呼んだものである。(「幻聴」に聞いてみた)

政治学といえば、ぼくも外山恒一さんの政治活動入門とゆう本を読んでいて、愛の感覚が沸き上がってきている。なぜなら、愛と斗争は不可分なものだからだ。マッチングアプリよりも政治的連帯を!





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