見出し画像

言葉の不思議 - 言葉が現実をつくっている

聞き手まかせ

海外で生活していたころ、言葉は魔法のようだと感じた。言葉ってつまりは感情とのマッチング作業じゃないか。自分の感情にもっともマッチした適切な言葉を選んで伝える。これは更に聞き手にとっても同様にマッチング作業だ。受け取った言葉にマッチする感情を選んで理解する。普段あまり意識せずにいるけど、感情の伝達にはこういうプロセスがあって初めて意思が伝わっている。

日本語で話しているとあまり意識しないことも、苦手な外国語を使っているとそんな不思議な感覚を想起させてくれる。実際のところ、どういう感情をマッチングさせているのかは話し手にとっても聞き手にとってもお互い「相手任せ」にならざるを得ない。もしかしたら自分とは違うプロセスでマッチングしているかもしれなくて、同じ言葉で同じ感情がマッチしている確信は信頼関係の上になりたっている。

感じているようで選ばれている感情

このマッチングってとても不思議。わたしは外国語が苦手だったからだけなのかもしれないけど。。。ボキャブラリーの少ない言語で生活していると自分の感情が淡白になっていく体験をしたことがある。言葉を「選ぶ」という作業によって、逆に自分の感情を固定させていたんじゃないかと思ったりもする。例えば、失恋した時、「あぁ、悲しい。。。」と思うと文字通り悲しいと感じてしまう。胸が苦しいと思えばそう感じる。でも、実際の感情は割り切れなくて、もっと切ない思いと、悔しさ、すがすがしさ、苦しさ、憎らしさ、嫉妬みないなのがぜーんぶ一緒になってごちゃ混ぜになってる。でもそれを「悲しい」と表現したとたん、その感情に「おさまっちゃう」。微細な心の動きを言語化できないと、シンプルな言葉に感情の方がおさめられちゃう。そんな風に感じた。人は言葉で考えたり感じたりしていて、言葉で現実を創造しているようなところがある。

同じと信じる心

こう考えると、言葉って魔法のよう。現実の一部は言葉が生み出している。コミュニケーションはしゃべっている本人と聞き手自らが創造している。だから、想いをそのまま共有できない人間にとって相互理解って結局は「信じる」こと以上になれない。この信頼が崩れたとき、言葉はただの記号になる。未だに言われのない争いがそこかしこで続いてもいる。その現実を己が作り出していると気づかずに。人は未知への恐れから自分のわかる範囲に言葉をネジ込んで理解したつもりになったりする。無意識にマッチングの魔法を捻じ曲げるんだ。きっとそうやって安心を得ているんだ。知識や言葉を学ぶこと以上に、理解の向こう側ににある「何か」を純粋に信じる心と、それを育む信頼を築くことがとっても大切なんだって思うんだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?