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夢と現実と世界平和

力による問題解決は新たな問題を生む。破壊や暴力による問題解決はより大きな憎しみを生む。どんな理由があろうと力や恐怖による問題解決にわたしは反対だし、そもそもその本質的な効力に疑問を持っている。

かといってなりふりかまわず制裁だ!という主張もまたなんだか物事を単純化しすぎていないか。もちろん目の前で死にかけているヒトをただ見過ごしてよいということではないけれど、それもまたカタチをかえた力による問題解決であるということも忘れてはいけない。そのような意味では「西側諸国のやり方」も同じように問題解決の手段としてどうあるべきか本質的な議論が必要なのではないか。国という「アイデンティティ」ばかりにとらわれすぎてしまうと、そこにいつも翻弄される弱者の姿があるということが見えなくなってしまう。

対話の通用しない国や組織が事件を起こすと、日本国内ではきまって国防(武装強化)の話が再熱する。日本も核を保有するべきだとか、武装しないことがリスクだなんて言葉がそろそろ熱を帯びて聞こえてくるのじゃないか。だから、たぶん今日の話はネットでも議論されつくされていて賛否両論あることはわかっているけれど武力について考えてみたい。

だいたいみんな戦争に反対

戦争にはほぼ全員が反対だ。(一部、戦争によって経済が潤うとか、戦争によって既得権益が駆逐されたほうが世界は結果的に早く変わる、なんて極端な意見もあるけども。。。)基本的には、みんな殺生はしたくないし、殺されたくもない。

その共通認識があるとわかりやすく戦争を起こした国を糾弾し制裁しろと言う話に帰結する。もちろん戦争には反対だし、いかなる理由があるにせよ、人や地域に危害を加えることが許されてはならない。

同時にもっと大きな視点を持つことを忘れてもいけない。本当に必要なことは悪者を炙り出し裁くことよりも「争いをなくすこと」だということ。

戦争には反対、でも武装強化はすべきか

争いのない平和な世界を望んでいるのに、武装強化しろ核保有だという正反対のことを主張するのはなぜだろう。「核を保有していない弱い国から順にやられる」という言葉はとても強烈なメッセージ性がある。なんでそんなに強烈かって、わたしはその主張がシンプルに「正しい」からだと思う。だって、素手の人間とバットを持った人間がいたら、バットを持ってるほうがよっぽど脅威だ。そこに挑めと言うならわたしだったらバットを持ってないほうを選ぶ。

だから、その恐れと事実からくる意見を否定しようとは思わないけれど、だからこそ「思い描く未来」と、「行き着く先にある未来」が同じものであるのかをよくよく考えることをやめないでほしい。

相対的平和を考える

武力による抑止力がある世界のほうが、抑止力のない世界よりも「相対的に平和なのだ」と主張する人はわりと多い。相対的平和とは、つまり平和じゃないってことでもある。むしろ絶対的な平和であると言いきれない危うさもある。ものすごい危険な「世界A」よりも、わりと危険な「世界B」の方が「相対的に平和だ」ということ。すぐに目に見えた成果がほしい、ちょっとでも「マシ」な平和が一歩ずつ実現できればいい、という短期的な視点で語るのであれば、核などの強大な武力を保有するという選択肢はもっとも現実的な解決策のひとつかもしれない。ただ、最終的に殺戮兵器そのものを地上からなくすという絶対的な平和を目指すのであれば問題を先送りしているようにも見える。

ようするに、みんなが求める平和はどのくらいの「高み」にあるんだろう。それによって答えは変わってくる。答えは一択だという批評家が多いけれど、わたしたちが描く未来によって答えは幾重にも重なっている。

核抑止力の抑止力とは

わたしは絶対的な平和(争いのない世界)を実現しようとしたとき、核抑止という考えは結果的に遠回りではないかと思っている。だってもし核抑止力が世界を平和にするのだとしたら「全ての国が核を保有することが最も望ましい」世界の形だということにならないだろうか。核抑止が本当に有効ならば、核保有が進み脅威が大きくなるほど世界はその抑止力によってより平和になるはずだから。でも、それにはたぶん多くのヒトは賛成せず、むしろ自国だけが核を保有すべきだという夢を描いている。

もし「核抑止力」を本気で考えるのであれば、イランの核兵器開発を歓迎すべきだということになります。イランはアメリカの軍事基地に囲まれて、常に脅威にさらされているので、「核抑止」の典型的なモデルになりえる。アラブ世界の大部分は、イランが核武装すべきだと考えているのに、アメリカはそう思っていない。なぜなら、アメリカは本気で「核抑止」など考えてはいないからです。

アメリカが考えているのは「核抑止」ではなく「核支配」です。

ノーム・チョムスキー

核保有による理想の世界均衡とはいったいどのようなものだろう。

小国が成せることは限られている

世界には挽回が不可能なほどの格差が広がっている。小国(あるいは小さな組織や地域)はどれだけあがいても大国に及ばず、国際社会で発言力を得ようとしたら武力によるなりふりかまわない最終手段に訴えるしかなくなっている。

このまま行けば小国が核武装しようという発想になるのは時間の問題ではないだろうか。既に先進国の大都市ビルにハイジャックした旅客機がぶちこまれるところまで世界はきている。核が抑止として機能しているかもう既に怪しい。小国はなりふりかまっていられないところまできているのだから。このような力による統制が続けば、核抑止でなく実際に「使われる」のも時間の問題ではないか。わたしたちはそんな極端に偏った不安定なバランスのなかにある。

(国どうしの格差は)縮まらざるを得ないのです。もし格差が広がるようなら、持たざる国はますます効果的に自分たちの不満を相手に伝える手段を獲得するようになります。たとえば持たざる国が核兵器を持つのは時間の問題でしょう。

ジャレド・ダイアモンド

わたしたちがすべきことは、より強大な脅威を誇示することによってもたらされる均衡ではなく、この格差を是正することではないのだろうか。

デモサイドを考える

とはいえ、武力強化をせずにどうやって自国を守ることができるのだ、という恐怖に打ち勝つことはなかなか難しい。このようなテロが蔓延する世界にあって無防備であれとは、さすがにいくら平和主義であっても手放しで主張することは難しい。

だから自国を守るために武力強化をしろという意見に(もし正当な理由が見いだせるのであれば)わたしは反対しない。しかし、それは恐怖からくる結論であってほしくない。武力強化、核保有を本気で主張するのならそれは勇気ある決断であってほしい。なぜなら、武力というのは必ずしも命を守るためのものではないからだ。いくら自衛のためとはいえ、武力はヒトの命を奪う。

そしてもうひとつ忘れてはいけないのは、武力は往々にして「国家」を守ることに用いられるのであり、必ずしも「国民」を守るために用いられないということだ。

国家は自分の国民との最初の約束を守ろうとしている … それぞれの国家が敵国の兵隊を殺しているのであれば、そう言えるでしょう。ところがそうではない。殺されているのは、外国人よりも自国民の方が圧倒的に多いのです。

ダグラス・ラミス

国内のデモを鎮圧するためであったり、国内の反政府派を弾圧するためであったり、むしろ武力というのは敵国の兵士よりも自国の国民を多く殺してきたという歴史がある。ランメルという学者によると、この100年で国家によって殺された人の数は約2億人になるそうだけど、そのうちの2/3もの人は自国民なのだと言う。 ランメルはこれをデモサイドdemocide(民殺、政府が自国民を殺すこと)と呼んで明確に区別している。

武力強化をする、憲法改定をするということは、現行の政府により大きな武力の行使を許容するということ。武力強化をしたらおしまい、ではないのだ。優柔不断な現政権にその権限を許容することで本当に安心安全な生活が保証されるのだろうか。武力というものが本質的に命を奪うものであるということを改めて認識したい。

できることを考える

わたしたちにできることをしようというとき、わたしたちが「今よりも多少貧しい生活を強いられる」ということを世界平和のためなら選択できるだろうか?そんなことをわたしはたまに考える。

できることをしようというとき、何かわかりやすいアクションを起こすことは比較的優しい。でも、現在普通にできていることを「しない・諦める」という選択をすることは意外と難しいのではないか。

いま起こっている争いが袋小路に入ってしまっている原因のひとつは、出口のみえない強大な格差からくる搾取にあるのではないか。すると平和な生活環境を維持するために「より強力な武力によって身を守るのだ」という解決策もまた経済的に強い国がずっと強くあり続ける搾取の連鎖の中にある。

わたしたちができることは、むしろわたしたちの既得権益を「諦める」ことではないのだろうか。その選択がわたしたちに果たしてできるだろうか?この答えに躊躇する心がある限り格差による争いは終わらない。

あまり難しく考えない

いろいろ引用をしつつ話をしてきたけれども、戦争と平和の話をするとき、わたしは物事を難しく考えすぎてしまう。でもいちばん大切なことは、シンプルに「理想を語る」ことなんじゃないかと思うんだ。

みんなはどういう世界に住みたいのだろう?

その理想の世界が現実的か非現実的かなんて、わたしたち凡人には実際よくわからない。それが簡単にわかるくらいだったら世界はとっくに平和になっているでしょう?わたしたちにできることは「どういう世界に住みたいか」の高い理想をしっかりと言葉にすることじゃないか。だからこそキング牧師は雄弁に「夢」を語ったのだと思う。

その市民の言葉が結局は政治の力になるのだから。権力とは力や暴力といったカタチのあるものではなく、それを底支えしているわれわれの「協力」が生んでいる。王様はそれを王様だと信じる臣民がいるから王様でありえる。わたしたち全員がつぶさに非協力をすれば権力はその瞬間に消えもするし、また反対に生まれもする。

ガンジーの政治思想の根底には、普遍的な政治法則がある。権力の分析だ。… 権力は腕力でもなく、暴力でもなく、思考力でもなく、組織力でもなく、神力でもない。権力は、その権力によって管理され、振り回され、抑圧される人の協力から発生するものだ、という法則である(… 政治家の政治力も、その政治力によって統治される人の協力から生まれるものだ)。

ダグラス・ラミス

守るべき家族はどこにいるか

「武装しない国が侵略されたらどうするのか」「平和憲法じゃ自国を守れやしないよ」という言葉はどれもそのとおりだ。でもたぶんもう世界は自国を守るだけでいいといった単純な白か黒かの理屈じゃ語れない。わたしには中国にも友達がいるし香港にも台湾にも韓国にもブラジルにも友だちがいる。アメリカにはお世話になった多くの人が暮らしているし、オーストラリアには親戚が住んでいる。そんな世界で自分の家族を守るためなら他国の財産や命を害してもよいなんて簡単には言えない。その「家族」はもう日本に限ったつながりのなかにはないのだから。冒頭に戻るけれど、国というアイデンティティばかりに囚われてしまうと、地球上にある多様でダイナミックな人と人どうしのつながりが見えなくなってしまう。

たとえ自国が攻められようと決して他を害さないという固い決意をもった国が世界にはなくてはならないとわたしは思う。少なくともわたしはそういう国に住みたい。それを消極的平和だと揶揄する人もいるかも知れないけれど、平和っていうのは理屈や力によって作られるのじゃなく覚悟なのだ。お互いに銃を頭につきつけられた状態にある二人が平和を取り戻すためには、まずどちらかが「先に銃を下ろす」覚悟を決めなければならない。それにはとてつもない胆力と勇気がいる。その勇気は平和を心の底から渇望する市民の意思と理想を描く夢の力からくるのではないかと思う。

りなる



参考

#戦争と平和 #夢を語る #住みたい国 #核保有 #憲法記念日に寄せて #ちょっと遅れたけど

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