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現実をみる前にスコープをみる感覚

人は生き、ただ死んでゆくーーー。何事もなさずに、何者でもないまま死んでいく。わたしはいったい何のために生きたのだろうと疑念をいだきながら、あるいはそんな疑念すらもなく。そんな焦燥感に駆られたとき、思い返してほしい。。。

情報社会の広がりによって、わたしたちは地球の裏側の情報が瞬時に手に入(ったつもりになれ)るし、世界中の成功者と自分をつぶさに比較されてしまうような感覚に陥る。

何者かで「ある」自分とはいったいなんだろう。

これは単なるスコープに過ぎない。何者でもない自分に悩むあなたにとって、スコープが荒すぎるんだ。あなたがいつも自分と比較されている・している誰かはより有能な世界の天才に比べたら、取るに足りない。その天才ですら、より大きな歴史のスコープに照らせば、取るに足りない。その歴史の偉人ですら、より大きな宇宙の存在からすれば、どこまでいっても取るに足りない。それができたからといって何だというのだろう。

逆に、あなたがいま気にもとめずにほうばったチキンに焦点をあててみたことがあるだろうか?そこには生産者の努力があって、それが店頭に運ばれ、販売者の手を通って、それを調理した人の思いがあり、あなたの眼の前のテーブルに並んでいる。それはあなたにとって、取るに足りないこと、かもしれない。更に、その鶏にも命はあって、そこには鶏なりの生活があったはずだ。それをあなたは気にもとめない、取るに足りないこと。その中には更にバクテリアがいて、またその生命を元に更にそのミクロの世界で生命を繋いでいく。それはわたしたち人間には見えないし気にもとめない、取るに足りないこと。

あなたの焦点のあてているスコープはどこにあるか考えたことがあるだろうか。想像してみてほしい、、、そのスコープの縮尺はどこまでも拡大ができ、どこまでも縮小ができる。あなたが存在しているスコープはどこに焦点をあてているのだろう?スコープの焦点から外れたものなど、気に止まらない、取るに足りない。それだけなのだ。

あなたが取るに足りないと思っているあなたの人生は、無駄に拡大された情報社会のスコープから焦点をはずれされているにすぎない。それどころか、あなたが意図的に外している焦点(たとえばインターネットで調べて知った気になっている景色や空気、温度、色彩、匂い)から漏れてしまったあらゆる事象や、そこに息づく生命すらもあなたは、取るに足りないもの、と無視を決め込んでいる。

あなたがその比較された現実に不毛さを感じるとき、あなたがもしその現実そのものではなく、そこに潜在しているスコープに意識を向けてみることができたのなら、きっとあなたの存在はまったく違った色彩を帯びることになる。

りなる



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