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『相互扶助論』 ピョートル・クロポトキン

宮本常一が絶賛していたと聞いて読んでみたくなりました。いろいろな文化や部族の事例だったりが続いて途中とっつきにくく読み飛ばした感もあるけど面白かったです。

いろいろ興味深い記述があったのでコメントを加えながら紹介したいと思います。興味が湧いたらぜひ読んでみてください。


生存競争ってなんだっけ

確かに、眼の前で我が子や愛する人が襲われていたり、彼等の身に危険や危機が迫っていたら、安全のために立ち向かいますよね。そういった意味では、間違いなくそこには生存のための闘争は確かにある。

とはいえ、よりしたたかに生存戦略を考えるとき、重要なのは生き残るために「どれだけ闘争を避け」「どれだけ誰かに助けてもらえる環境を持っているか」ってことじゃないだろうか。クラスでいちばん強いジャイアンが必ず生き残るかっていったら、たぶんそんなことはないですよね。最弱ののび太くんでさえ、ドラえもんに助けてもらえるという点において最高の生存率を誇るように思われる。。。感覚的にはわかっているはずなのに、わたしたちはどこかで強者にならなければ生き残れないって外圧に押しつぶされそうになっている。

本書は、そこみんな見落としてない?ってしつこく語りかけてくるお話です。わたしたちは、いわゆる「過酷な容赦のない生存競争」説を耳にタコができるほど聞いているのだけれど、著者はケスレルの言葉を引用しつつ、この生存競争という言葉の濫用について強い批判をしている。

もとより私は生存競争を否定するものではない。ただ私は、動物界のそしてことに人類界の進歩的発達が、相互闘争によってよりも相互扶助によって、より多く促されたということを主張したいのだ。

・・・いっさいの生物は、二つの根本的欲望、すなわち栄養の欲望と種の繁殖の欲望とを持っている。前者は動物を導いて闘争と殺戮とに赴かしめ、後者は動物をして互いに相接近せしめ相助力せしめる。けれども私はむしろ、有機界の進化に置いては、生物の進歩的変遷においては、各個体間の相互扶助の方が相互闘争よりも遥かに重要な役目をなすものであると考えたい。

生存競争っていう言葉は大いに誤解のある言葉。

ひとびとの生活は常にそこにある

宮本常一が好んだのは、おそらくひとびとの生活基盤への視点じゃないかと思った。わたしたちは歴史の高い視点で世界をみたがるけれど、そこには見逃されがちな底辺の生活が常にあり、むしろそこにこそ大多数の人間の真実がある。

文化の一段高い階段にはいって、その時代についての多少のことを書き記している歴史を見ると、われわれはそこに現れている戦争と闘争とに困惑されてしまう。

民族の大多数は、わずかに少数の人々のみが互いに相戦いつつあった間にも、なお平和に労働して生活していたのだ。

戦時中だからといって全ての人が殺戮に興じていたわけではもちろんなくて、そこには日常もあったはず。考えればあたりまえなのだけれども。。。大多数の人はその日々の中にあって平穏な毎日を過ごしていた。

歴史はその生活の痕跡に目を止めない。

狂気を語り継ぐこと

わたしはしばしば戦争の狂気を伝えること悲惨さを語り継ぐこと、これが人類の子孫にとってどこまで重要なのかよくよく考えたほうがよいのではないかと思ったりする。

人間の観念には、必ず二元的な言葉の相対が存在している。光という言葉がなければ闇が認知できないように。戦争の悲惨さを伝え、平和が大事だ!と主張したところで、戦争と平和の存在対比はわたしたちの意識からは未来永劫消えない。

原理的に平和とはなんだろう。。。それは、戦争も平和もない人間の営みの自然にあるあたりまえさの中に存在するのではないだろうか。それはもう平和ですらないなにか。。。暴力や人間の残虐さにどれだけ注力したところで、どこまでも歴史は平和に寄与しない。

争闘や暴行や、その他あらゆる種類の個人的災禍の一つ一つについて、きわめて詳細な叙述を後世に伝えている。しかし、われわれの誰でもが各自の経験から知っている相互支持と献身との無数の行為については、ほとんど何等の痕跡をも止めない。

史詩も、記念碑の銘刻も、平和条約文も、ほとんどいっさいの歴史的記録はみなこれと同一の性質を持っている。これらの記録は、平和の破裂を取扱って、平和そのものには与らない。

社会契約説への帰結から

社会にはお互い相容れない倫理からくる闘争が存在してる。我々と彼等との間には異なる二重の倫理が常に存在する。だから文化・宗教の違いによる争いはいつも絶えない。現代社会には国家であったり政治哲学によって、この倫理を統一(一般化)することにひとまず成功したようにみえる。個人の生命の自由を保証するという大義をもって、わたしたちは世界と折り合いをつけて暮らしているのだ。現代社会では他国を無碍に侵害することはできないし、無闇に人の命を奪うことも許されない。このような社会倫理的な統一の見解らしきものをわたしたちは持つにいたっている。

けれども、それはひょっとすると逆で「個人の自由(個人主義)」を基軸にした社会との契約によって、これまであった土着の相互扶助の努力を滅殺してしまったのではないかと著者は言う。

道徳上のこの二重観念は人類の全進化を通じて今日に至るまで維持されて来た。われわれヨーロッパ人は、この倫理上の二重の観念を棄てるために、多少の ーーー はなはだ大なるとは言えない ーーー 進歩を実現した。

しかし、かくしてわれわれは、ある程度にまではこの団結の思想を(少なくとも理論上には)一国民全体に及ぼし、さらに幾分かは他の国民にまでも拡張したのであるが、同時にわれわれはまた、自己の国民内の団結、自己の種族内の団結を滅殺してしまったのである。

浮かび上がる人びとの姿

このように書くと現代社会において、人間の営みにあった相互扶助がことごとく破壊されて、なくなってしまったと感じるかもしれない。でも、著者がいいたかったのはたぶんそこじゃない。

目先の危機にたいする闘争と同じくらい、それ以上にわたしたちの生物として隠せない相互扶助の本性がそこには「常にある」。争いが繰り返されるたびに、それを避けるための文化や風習が繰り返し生まれてきた。そのための忍耐が文化のなかで醸成されてもきた。一見すると野蛮な他国の風習も、より深く洞察することで、そこにはまったく違った視点によって争いを抑制するあるいは避けるための習慣が見えてくる。歴史は常にこの土着のルールを勝者の視点によって黙殺してきただけなのだ。

多くの宗教家やアナーキストが語るのは、国家が悪いとか、そういうことでもなくって、そもそも人間や動物ひとりひとりに本来そなわっている相互扶助の感覚や文化を信頼しなさいということなのかもしれない。

洗練された社会

さて、社会は昔に比べて洗練されたと言う。わたしたちはかつてないほどのテクノロジーや法に満たされ、おおよそ全ての営みは社会ルールのなかで解決する。社会の規定を正しくし、その規定に従いさえすれば国民は生命を危険にさらすことなく自由に生活することができると言う。

ただ、それは大きな視点を欠いている。このような社会のルールに従う義務が発生したと同時に、わたしたちは身の回りの人々との約束事や責任から、「しがらみ」だと言って、どんどん逃れるようになった。

かくのごとく国家があらゆる社会的機能を吸収してしまったことは、必然に、放縦なそして偏狭な個人主義の発達を助けた。人民は、国家に対する義務の数が増していくに従って、明らかに人民同士の間の義務を免れた。

今日では、隣人が病気になった時には、近所の貧民病院の所番地を教えてやれば、それで十分だと考えられている。

さて、その結果起こったことはなんだろう。隣人に何が起こっているのか現代人のわたしたちは知らないし、関わろうともしない。それは逆にわたしが困ったときに、隣人はわたしとの関わりを持とうとしないだろう、ということだ。

敵者生存の敵者ってなんだろう

自然界ではより強い強者が生き残っているわけではない。すると敵者とは強者ということではなさそうだ。多様に存在している多種のなかで歴史や自然のなりゆきの結果としてたまたまそこにいた者が生き残っているのだ。すると、敵者とはより「環境に順応したもの」ということでもなさそうだ。敵者とは歴史や自然の結果としてたまたま「そこにいた者」でしかない。持続可能性とは、その観点でいうなら、たまたまそこに居合わせる確立を高くするために、種をたくさんまいておく、網を広げておく、だから多様なパターンを許容するということ。持続可能性には多様性が欠かせないというのはそういうこと。つまり、敵者であることは自助努力では選べないんだ。

生存率を高めるもののは競争社会を勝ち抜く強者であることではなく、結果がどうであれ、誰がその結果に選ばれたとて、その誰かに助けてもらえる、そしてもし自分が選ばれたのであれば誰かを助けてあげられる、そういった相互扶助を促す力なのかもしれない、なんてことを思った。

りなる



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