見出し画像

「非可視化」される営み

無人島でもアイデアさえあれば、お金を生み出すことができる!という触れ込みで、拾った流木やら自然物を加工してアートや家具を自作してフリマで売ったらどのぐらい稼げるのかを検証するTV番組をやっていた。そこら辺に転がっているモノを商品に変える錬金術についつい見入ってしまった(笑)

確かに、このご時世、ただの石ころだろうが木くずだろうが切れ端だろうが、需要が見合いさえすればアイデア次第でモノは売れる。サラリーマンになって世の経済活動にあくせく働かなくったって、想像力とスマホひとつで好きに生きていける。そんなことを想起させたりもする。だけど、その奥には更にわたしたちを縛っているもっと深い市場心理が働いていることに注意を払わないといけないのではないか。

例えば、フリマで竹が売れるとわかると、こぞって竹林に入って竹を伐採する。無人島にはプレーヤーが三人しかいなくてたった三日間の検証だったからこそ、竹は無尽にある錬金のようにみえる。でも、そうやって無人島の外の需要に応えて資源が流出していくさまは三日間の検証では描かれないし、描ききれない。それを「何もないところからお金を産んでいる」かのように表現しているところに、現代の市場社会の単眼的な視点がよく現れている。ま、ただのバラエティー番組なんだけどw

結局は、スモールな地域とグローバルな社会(地域の外世界)が、お金の流れでつながると資源だけが流出して、人を含む地域の自然循環の理が無碍にされてしまう。自然のなかで永続的な人の暮らしを模索しようとしたとき「スロー」で「ロング」な時間経過は無視できない。ところが、現代社会は全ての問題を細分化し短時間化しようとする。そしてそれを効率的だと言ったりもする。そうやって長い時間の経過の中で、短い周期の営みの積み重ねがどのような結末を迎えるのかにあまり意識を向けてこなかった。

自然のものをかき集めてその場限りのモノづくりを行う営みをみていて、ふと法隆寺の宮大工だった西岡棟梁の言葉を思い出している。

ちゃんと使ってやれば、千年の檜は伐採されてからも千年は建材としてその威力を発揮する。棟梁の言葉を借りるなら「木は二度生きる」。現代の建築基準では、土台にコンクリートを敷き詰めその上に釘やらボルトでがっちり木を固定する。ボルトにしろ釘にしろ木に傷をつければ強度も損なうし、コンクリートを敷けば木は足元から腐っていく。そうやって百年もつ木も数十年で腐り始める。

「効率化」ってなんなんだろうね。一般的な木造住宅を建設する場合、おおよそ樹齢60年くらいの木が必要になるんだそうだけれど、これをコンクリートで固めて25年程度しか持たない家を効率よくささっと建ててしまう。確かに以前より容易に安価で良い家が建つようになった。ボロがでたらまた新しい家を建てればよい。建材は世界各国から取り寄せればいいのだから。でも、そうやってみんなが樹齢60年の木を短い周期で利用したらどうなるんだろう。

木を「活かす」ためには、材木の見極めがとっても重要になってくる。人と同じで材木にも適材適所がある。人にも癖があるように、すべての木には癖があるし得意不得意もある。そう棟梁は語っていた。

人も木も自然も社会もきっと同じではないのだろうか?

細分化、最短化、時短化を追求した効率化とマネタイジングだけでは不足している視点がきっとある。無人島でゴミを集めて、それを一瞬でお金に変えてしまうビジネススキルは確かにすごいと思う。でも、五年かかって育った竹は伐採しても同じ様に五年間の有効活用が必要だということ。伐採した竹をものの数分で換金しただけでは、竹の利用ライフサイクルのほんの導入部しか見ていない。まして、その資源の全体サイクルはむしろグローバルな社会の中では常に「非可視化」されてしまうことに気づかないといけない。

りなる



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?