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あいまいさの中にある知性 - わからないことをわからないと認めること

「あいまいさ」はときに物事に深みを与えたり、人とのつながりに幅を与えてくれたりします。


白黒はっきりさせること

わたしはシステム設計や業務要件など仕事においては、厳密さを要求しグレーゾーンを残さないことをモットーとしているつもりです。白黒はっきりさせることが重要だと誰よりも主張していると思います。

白黒はっきりさせるとは、必ずしも「答え」を提示するということと同義ではありません。わからないことを「わからない」と明言することもまた、"はっきりさせる" ことだとわたしは思います。

問題を先延ばしにし決定を渋ることで、ものづくりの現場には多くの出戻りが発生しスタッフはみるみる疲弊していくものです。だからこそ、できないものは「できない」、わからないものは「わからない」、と率直に発言できる人材はとても有用だと思います。それによって、後続するプロセスが大きく変わってくるからです。

論破するという流行り

近年、SNSなどを覗いていると「白黒はっきりさせること」を多分に誤解しているような言動にあふれているように感じます。

データを引き合いに、さまざまな見聞や知見(うんちく)を披露することで、その場を丸め込み、ばっさりと切って捨てる。頭の回転の早さでもって華麗に論破する。そんな行為がもてはやされるようになりました。

このような風潮は、エンターテイメントとしてはわたしも好きだし、マーケティング手法としても効果がとても高いと思います。ただ、重大な決定を担う議論の場にはふさわしくありません。

情報の商業化

SNSにしろTVにしろ、ほんの数分間の議論の中で限定的な議論がなされているように思います。情報はますます細分化され、簡略化されています。これは情報の商業化が進み、よりキャッチーで目を引くワードが重要視されるようになったからだと思います。情報もインパクト勝負ということ。

マーケッター、コピーライター、広告デザイナーのスキルが成熟し、あらゆる視覚情報はセンスがあってクールでスタイリッシュになりました。なにしろ非常にわかりやすく、だからこそ即効性があり行動に移されやすい利点があります。

その効果を認めつつも、だからといって組織や社会の重要な決定事項を担う議論を同じ感性で語るのはかなり乱暴であると思うのです。

断定することは正義?

ハンス・ロスリング氏の書籍『FACTFULNESS』がヒットしています。データドリブン、ロジカルシンキング、そういった論拠を示しながら、議論の内容を可視化していくという手法はとても素晴らしいものです。すべてはデータが語る。データを拠り所にしながら、状況を俯瞰し、曖昧さを排除していくという議論は歓迎すべきだとわたしも思います。

しかし、答えを急いではいけない。

いくらデータが正しくとも、その扱いや前提条件を間違えば自ずと答えも間違ってしまう。数学だってそう。仔細を失念してしまったのですが、いぜんある数学者が仰っていた。正しいと証明されていている完璧な公式であっても、スタートの代入値が間違っていれば見当違いの答えに行き着いてしまうんです。正しいと証明された公式で導きだされたからといって答えが正しいとは限らない、これは誰でもわかります。

それと同じ基本的なことを忘れてしまっているようです。世の中全員が論破し、論破され、相手にマーケティングをしかけ、いち早く行動を起こすために、自分の行動を正当化しそれが正しいと「断定する」ことに取り憑かれていませんか。

最近のコロナ騒ぎでも、例えば感染者数に対して死亡率が減っているデータを理由にコロナは収束した、というツイートがとても目につくようになったと思います。確かに非常に有用なデータの示唆だと思います。でも、われわれ素人がコロナは収束したと断定するに足る決定的な証拠なのでしょうか?もちろん、もろもろの副次的なデータを調べたり、他の論文をしっかりと精査した方もおられるでしょう。ただ、(わたしを含め)ほとんどの人のデータソースをたどってみるとそのたった一枚のグラフをみただけでそうだと断定している。少し賢い人でもたかが2000文字程度のブログの記事を読んで、そうだと断定し、つぶさに現状への批判行動へと移る。

これってすごい怖いことだと思うんです。

十分な答えを得るには時間がかかる

こういった目先の勝利があまりに重視されすぎていることによって、論破した "勝者" の言い分が、「結果的に正しかったか?」の、後日検証はむしろあまりなされていない。その場の爽快感だけが残る。

その点、政治家はとても狡猾で、世論が喜ばないにしても、反感をかわない程度の発言で論点をかわしている。その結果が出るころには世間はすっかり忘れてしまっているのだから。

近代社会の急激な移り変わりの中で育ってきたわたしたちは時間をかけて検証をするという長期的なスパンにあまりにも遠ざかり過ぎてしまった。ひとつのことがらを長期的に心に留めておくことに慣れていません。間抜けなのは本当は政治家なのか世間なのか。

わからないことをわからないと認めること

物事には事実があって付随するデータがある。それを分析する頭脳さえあれば、答えは今すぐにでも導き出されると誰もが一様に盲信している。ほとんど何も考えずに、、、。

白黒つけるということは、必ずしも即座に物事を断定し答えを見つけることではないと思うのです。だからといって、なんでもかんでも時間をかけなさい、と言いたいわけではありません。社会でも仕事でも、有事の際には、戦況を読み即座に決断し行動に移さなければ行けない状況は必ずあるでしょう。

しかし、これが答えだ!と断定して行動することと、(これが正しいかわからないけど)現時点の最良の選択だ、と思って行動することでは、進め方が全く違ってくる。特に間違ったときの修正能力や復元力に大きな差が生まれる。

システム設計などで重大な局面を迎えた時の行動を振り返ると、わたしの経験上でも同じことが言えます。(システム設計と社会問題をいっしょにするなと言われてしまえばそれまでですが)これが唯一無二の答えですと誤って断定したまま設計が進むと後で膨大なツケが回ってくるのです。

わからないものは、わからないとしておく。または、緊急時であれば、"現時点での" 最良の決断だとしておく、そして事あるごとに事後の検証と修正を繰り返していく。それがあるべき姿ではないだろうか。

百聞は一見にしかずという神話

人の命が関わるようなことや、人生を左右するようなこと、わたしたちの生活や生き方に関わるようなこと、そういったものでさえファストフードのように即座に結果を求めようとする。

でも、そこにわたしたちがぱっと見聞きして、すぐに万人にとって相応しい答えが用意されているとは限りません。

むしろ、わからない、という「あいまいさ」を残すことで、より深く人間の本質的な問題に関わる議論ができることもあると思うのです。

りなる


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