見出し画像

誰かの赤字は、誰かの黒字

最近みんな狂ったように経済成長 x 経済成長と声を上げるのだけど、その中身はだいたい「いかに黒字化するか」「無駄なお金を使うな」の2点に集約されてしまう気がする。ただ、この2つの主張ってわたしにはどうも違和感があって。。。

わたしの経済の知識って中高校の政治・経済レベルからあまり進化しておらず、専門家の言っていることは正直よくわからない。。。今日はいっしょにモヤモヤの正体を探ってほしいと思います。


誰かの赤字は、誰かの黒字

簿記を学んだ人には、何あたり前のこと言っているの?と、言われてしまいそうですが。。。収入と支出は一致する。わたしにはこれが疑いようのない事実に思える。ところが、経済成長の話を聞けば聞くほどこの原理と矛盾している気がしてなりません。

わたしが今朝、近所のパン屋さんで買った130円のカレーパンを例に考えてみる。この代金はわたしの財布から出ているので、わたしにとって-130円の「赤字」です。ところが視点を変えてパン屋さんからみると、レジに130円入るわけですから、+130円の「黒字」が生まれます。

我が家の家計の観点でみれば-130円のマイナスですが、社会全体でみたとき「使ったお金」と「使われたお金」は必ず一致しますよね。足したらゼロになるはずです。両者がプラスになることは原理的にありえません。

はて、するとみんなが常にお金を儲けて社会全体で「黒字が出続ける」状態というのは、どういう状態なのだろう。。。

無駄遣いの定義

カレーパンの話のつづき。このカレーパンの代金をわたしはパン屋さんに支払いました。でも、実際には原材料の小麦やカレーの具材を作っている農家さんの収入にもなります。農家さんからパン屋さんに材料を届けてくれた物流ドライバーさんにの収入にもなるはず。パン屋さんで使われているオーブンの設備費にも充てられてるかも知れません。すると、オーブン工場の工員、部品工場、その管理者、物流、果ては鉄や銅などの鉱石を採掘している作業員にまで行き渡ります。もうそれは、130円のうちのいったい何円なんだ?と言えないほど微量の内訳ですが、厳密にはそういうことになります。

そうそう、実はわたしこのカレーパンを先日も買っていたことをすっかりわすれていて、、、冷蔵庫でダメにしまったんです。泣く泣くゴミ箱に廃棄しました。すると、あぁ、130円を「無駄にした」という話になります。でも、これは家計の観点。

社会全体の観点でみるとどうでしょうか?この130円によって、誰かの家計が支えられています。オーブンの工場は収益の何%かを恵まれない子どもたちに寄付してるかもしれません。もちろん、わたしが捨ててしまったカレーパンの材料は無駄になってしまいました。。。でも、社会全体を「経済」の観点で見たとき、使ったお金が無駄だったかどうか、正直わかりません。

すると、よくテレビで50億円の税金を無駄遣いしやがって!もっと有効にお金を使え!などといった批判をよく耳にしますが、、、何をもって「無駄遣い」なのだろう。どれもそれを説明していません。上述の通りその支出が無駄だったかなんて「わからない」と言うほうがよほど誠実に思えます。

はて、経済的に無駄なお金の使い方ってどういうことを言うのだろう?(これは後ほど資源の話に続きます。)

黒字化は正義か

ここでみなさんにも聞いてみたい。黒字化目標というのが、いまどこの誰に聞いてもまっとうな経済指標だと疑いようのない常識になっているようですが、、、その黒字もまた赤字の裏返しによって成り立っています。収支は足したらゼロになるのですから。より多く黒字を積み上げたということは、そのさかさまに同じ分だけの赤字がどこかに積み上がっている。すると、黒字は正義、赤字は悪。。。という構図は社会全体の視点で見ると成り立たなくなってしまわないだろうか?

そもそも、黒字化 = 成功なんだろうか。。。黒字が正義、赤字は悪だというのなら、正義を遂行するために同じだけの悪を生み出す必要がある。まるで、戦隊ヒーローにとって悪の怪人がいなければ正義が遂行できないように。

はて、黒字化って、、、(以下同文)

収支はゼロでバランスする

どこにも赤字を生まない手段を選ぼうとすれば、黒字も同じくどこにも生まれない。わたしは近年なんとなく思うのです。黒字化を社会指標とするよりも、より自然なのは、そのどちらも生まない収支がゼロである状態なのではないか?黒字・赤字はいずれもバランスを欠いた偏りの表裏。だとしたら、もっとも安定する状態は常に真ん中(ゼロ)に近いところでバランスすること。中高校で習った政治・経済の知識や、簡単な簿記の目線から導きだされるのは、こんなシンプルな見解だ。

自由な社会と、豊かな生活

そもそも、なぜお金がほしいのだろう?なぜ黒字化を目指すのだろう。。。それはつまり端的に言えば、好きなことを好きにできる自由がほしいからではないだろうか。その結果、友達に会いに行くのにも、家族に会うのにも、都内を移動するだけでお金を請求される。連絡を取るためには10数万もする機器デバイスが必要になるだけでなく、更に毎年何万もの利用料を請求される。それを補填するために、毎日一生懸命稼がなくてはならない。寝て起きて食べて、、、あらゆる活動に利用料が設定されていて、その膨大な支払いに追われているからだ。そのうち息をするのにも料金が請求されそう。。。

好い社会とはなんだろう?豊かな生活とはなんだろう?これはよくよく考えてみてほしい。豊かさとは、わたしたちのやりたいことが「制限されない」環境ではないだろうか?個々の幸せはそれぞれだから定義することは難しい。ただ、その幸せを模索するための「やりがい」や「生きがい」をどこまでも拡張しようと努力する社会こそ自由だと言えるのではないだろうか。

みんなが能力に応じて自由に働くことができる。がんばった分だけお金を稼ぐことができるし、身分の卑賤なく等しく使うこともできる。それを自由だと言うけれど、その自由を十分に享受できているのは世界の数%。現代社会で言われる "自由" は、むしろわたしたち「その他大勢」の活動をどこまでも制限する。それはみんなが黒字化を目指すという実現困難な豊かさを求めるからではないだろうか。

資源と価値の裏付け

『花見酒』という落語を知ってますか?

ある二人の男が儲け話があると、酒樽を仕入れて花見会場に酒を売りに行くんです。今で言う移動販売ですね。道すがら喉が乾いたから酒を売ってくれないかと一方の男が言うんです。お金を払うならお客様だ、と100円で売ってもらってうまそうに飲むw すると、もう一方の男も、おれにも酒を売ってくれないかと懐に先ほど入れたばかりの100円を支払う。二杯目、三杯目と続くうちに花見会場にたどり着く頃には酒はなくなってしまう。開店早々に完売した!と二人が喜んだのも束の間、売上が100円しかない。これはどういうことだと議論になる。「100円出してお前さんが飲んで、つぎにその100円でおれが飲んで、またお前さんが飲んで、おれが飲んで、、、で売り切れたんだ」「あぁ、なんだそれなら無駄がなくってよかったな」と納得する、というとんでもないお話w

目先のお金が飛び交うだけで、資源だけが枯渇してしまうという、現代人のわれわれには耳が痛い、なかなか示唆に富んだ話です。なんでこんなことが起こるかって言ったら、お金と実態が紐づいてないからですよね。お金の価値の裏付けがないと、こういう事が起こりえます。

それならば例えば、100円 = 1時間という価値の裏付けを持ったらどうだろうと提案してみたい。同じ100円を使うのに「一時間の滞留時間」を強制的に発生させるのです。すると、1杯100円の酒に対して1時間という実態価値が生まれます。そうすれば、お酒がなくなる前に花見会場まで行きつけたのではないでしょうか。

現代のお金の価値の裏付けって何でしょうね?金本位制でもないので裏付けは「ない」ってことになるのかな。信用だと言われてもいまいちピンときません。実質的には「労働時間」なんじゃないかとぼんやり思うことがあります。労働時間を裏付けとしてお金の価値を担保している。だからつまり、例えば2,000円のものを買うためには、1時間の滞留時間(=労働時間)が必要になる。ぶっちゃけこの労働時間には何んもしなくってもいいんです。「1時間拘束される」ということが価値の裏付けになるのですから。そうすることで、相対的にあらゆる資源の価値が便宜的に担保されてる。。。

そうはいっても、一部の権力者が大量の労働時間を元手にして、あるいは法外な時間単価を自身に付与するなどの特権を利用して、お金をいかようにでも工面することで資源がこそげ取られる。。。そうやって酒樽の酒は結局なくなります。

これを地球資源に置き換えて考えるとゾッとします。持続可能性などということばを紐解くと、経済的な黒字化の永続みたいな文脈で語られることが多いですが、、、価値の裏付けをどこに持つのかを意識しないと、それこそ資源がみるみる浪費されそうです。お金はいくら無駄遣いしてもなくなりませんけど、限りある地球資源は違います。

そして、それは「あなたの時間」にも言えること。

正しさを何で判断するのか

いろいろ書きましたが、経済の話をするときに正しさを黒字化に置いてしまうと、いろいろな矛盾が起こってくると思いませんか?そんな、モヤモヤが共有できたらいいな。

黒字化が指標でないなら、何を指標とするのがよいのか?これは色々考えるのですが、「活動を制限しない(≒ 自由さ)」ということではないかと、いまのところ思っています。われわれの活動を制限しないこと。やりたいことを自由にやる「活動の機会を最大化する」こと。誰かと会ったり、家族と話したり、音楽を奏でたり、誰かを助けたり。。。

ひいては人類の未来を制限しないこと。すると価値の裏付けをどこに置くべきかの視点も全く変わってくるでしょう。現在と未来のわたしたちのあらゆる「活動」の可能性を拡張することこそ、社会全体で力をいれるべきことじゃないでしょうか。

ちょっと本題からそれますが、やりたいことを自由にやる!といったとき、それは欲望のままに生きるとか、快楽に溺れることだと勘違いする人がいます。そういう人には言いたい。。。わたしたちは言うほど快楽に生きていない。。。快楽とは何なのか、そこをとことんまで追求したとき、快楽や自由と言う言葉と、社会の豊かさと言う言葉が矛盾しない点が生まれます。

自己責任から助け合いへ

収支をゼロでバランスさせるっていうと、、、江戸っ子よろしく「宵越しの銭は持たない」ってなんだか危うく歌舞いた生活のようにも聞こえてしまう。ただ、その視点をもったときに、見えてくる経済経世済民の在り方はいまのそれと大きく変わってきます。このモヤモヤをいっしょに持ち続けてほしい。

現代社会は300年前とは多くの点で違う。必要なものはほとんど全人口に行き渡り、むしろ余剰の生産物で溢れている。わたしたちのほとんどが300年前の大名やら貴族など当時の特権階級層よりはるかに恵まれた生活をしている。フリップひとつで世界中の情報が手に入り、世界一の一流シェフの料理を誰もが楽しむことができる。ソファーに座ったままボタンひとつで欲しいものが届きさえする。ところが、300年前の彼らよりもわたしたちのほうが幸せだ!と胸を張って言えるだろうか。

いまこそ、限られた資源をこそげ取りあう生活より、人間が豊かであれる活動の機会を増やすことにもっと専念したほうがいい。そのための「人間の活動」とは何なのか?その模索こそ人生を豊かにする。現代社会はそういった活動に目を向けるのに十分な発展をしているとわたしは思う。すると、自己の黒字を積み上げることよりも、何かあったときには自己責任ではなく、社会全体で助け合える環境をつくること、そういった社会を育むことの方がより自然な成り行きのように感じられないだろうか。

りなる



参考

やひろさんが、いっしょにモヤモヤを考察してくれました!こんな風にお金そのものだけでなく、一度立ち止まって改めて、あれ?そもそも豊かな社会ってなんだっけ、、、とみんなで考察しあえる場にnoteが育っていったらいいなぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?