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革命前夜 - わたしは君に逝ってほしくなかった

ーー 革命前夜。わたしは革命という言葉に強く心が惹かれます。どうしてなのかはわかりませんが、それは革命が好きというのとは違って、その言葉に愛する人々や守るべき人々を連想するからなように思います。互いに守るべきモノや信条があり、そのために語ることも許されず失われた命。革命という言葉に愛する人の面影と悲しみが同居する。

世の中は移りゆきます。ーー 諸行無常。この世に常なるものなど存在しません。あらゆるものは必ず移りゆく。

いま社会はとても不穏な方向に歩みを進めているようにみえます。それを肯定するように「対立や抗争の犠牲はときには不可欠なこと」と主張する声もしばしば聞こえてきます。しかし、より発展した社会において「他にもっとよいやりかたがあるのではないか」とわたしは思わずにいられない。テクノロジーの発達したこの現代にあって、いまわたしたちが取りえる行動はもっと他にないのだろうか。


リーダー率いる反抗力

強力なリーダーが率いる反抗力が変革の原動になり、大規模なデモが起こったり、クーデターが起こったり、大きな反発の運動が巻き起こる。巨大な権力に立ち向かうために、それを上回る民衆の力が必要で、そこには民衆を奮い立たせるリーダーがいる。

しかし、力に対抗するために力を用いるとき必ず衝突が生まれます。虐げられた民衆の強い意志が、最終的には古い体制を打ち負かすまでになるのですが、時に人は残忍になり大義のために命を捨て暴徒化したりもする。

力による反抗には血が伴う。

このやり方もあまり通用しなくなっているようにも思います。インターネットの進化により情報の拡散がこれまでないほどに狡猾になってきています。強烈な感情は不安や恐怖に駆り立てられ簡単に影響されてしまいます。対立が混乱を誘導し、巨大な力の前に残酷に打ち消し合うのです。わたしたちの前でいま繰り広げられているのは革命ですらない、泥仕合ではないでしょうか。

メソッドとしての非暴力

歴史にはいくつかの無血革命と言われる革命がありますが、これをはじめて戦術として体系化したのがガンジーなのではないかと思います。非暴力というと単に道徳的な勇気ある行動だとか、神秘主義的な行為だと思っている人も多いのではないかと思います。ガンジーは聖人である前に国際法に精通した政治活動家であり戦術家でした。

非暴力とは、ガンジーの卓越した権力分析から生まれた洗練された革命のメソッドなのです。

ガンジーの政治思想の根底には、普遍的な政治法則がある。権力の分析だ。繰り返しだが、それは次のようなことだ。権力は腕力でもなく、暴力でもなく、思考力でもなく、組織力でもなく、神力でもない。権力は、その権力によって管理され、振り回され、抑圧される人の協力から発生するものだ、という法則である。

ダグラス・ラミス(ガンジーの危険な平和憲法案より)

そもそも権力とは、権力者の能力や力によって自ら発揮されるわけではなく、被権力者の協力によってはじめて成立するということです。

「裸の王様」理論

もう少し詳しく説明します。革命の話から逸れますが、大事なことなのでしばらくお付き合いください。

王様を王様たらしめているものはなにか。それは、紛れもない王様を担ぎ上げている臣民の存在があるからです。もし、たったいまこの瞬間に王国に住む全員が「王様に従うの、やーめた!」といったらどうなるでしょう。兵士も法律家も学者も医師も、各施設で働くスタッフも。

民衆が一斉に王様を認めることをやめたら。「王様は実は裸でいらっしゃる!」とみんなが叫びだしたなら、王様はもう王様ではいられません。

ガンジーが言うように、イギリス人のインドでの権力は、イギリスから持ってきたものではなく、インドでインド人によって作られたものだった。

そしてこれは植民地状態にある地域だけではなく、どのような権力にしても当てはまる法則だ。

どんなえらい王様にしても、まわりに自分が「臣民」だと思い込み、それを演技する人がいないと、その王政は成り立たないだろう。

ダグラス・ラミス(ガンジーの危険な平和憲法案より)

権力は王様自身の力によって顕現しているわけではなく、その力の源は被権力者である民衆の「協力」によって成り立っている、ということを忘れてはいけません。

新しい革命の手法

ガンジーが体現してみせたのは、非服従、非参加、非協力というわたしたち自身が望まない権力を「発動させない」在り方なのです。巨大な権力に立ち向かう方法は、抗争により相手を打倒するためのより大きな力だけではないのです。

権力者を王たらしめているのは力そのものではなく、彼を王だと信じる臣民がいるからこそです。裸の王様を裸だと認めること。わたしは従いませんと言うだけでよいのです。権力に協力し加担ているのは、わたしたち自身だという事実を思い出し、非協力をするだけでよいのです。血を見ることも、命を危険にさらす必要もありません。

共に、同時に、一斉に

一人でやっても意味がありません。大勢に対して個が非服従をしたところでなにもかわりません。バカにされるか、弾圧されておしまいです。権力の大きさに関わらず、いちどにすべて臣民が同時に服従を諦めた途端、権力はなくなります。裸の王様を叫ぶのは、全員であるべきです。

権力を放棄し離脱するのは「同時に」というのがカギです。だからこそ「共・離脱」です。個人単体ではなく共に離脱するのです。これまでのように権力に対して力で立ち向かうのではなく、「なにもしない」ことでこそ権力は無力化するのです。

ガンジーの生きた時代にはきっととっても難しいことだったはずです。絶対的な暴力に対して、非暴力で立ち向かう強靭な精神力と勇気も必要だったことでしょう。広く訴えるための強力な印象戦略でもあったかも知れません。地道な草の根的な活動であったはずです。

いまそれは当時からすれば驚くほど手軽なことになっています。インターネットはこれまで物理的に不可能だった世界の横のつながりを可能にしました。このテクノロジーはこれまでの人のつながり方を根本的に変えた社会変革の基盤なのです。いま、もしガンジーが生きていたら彼の戦術はどのようなものに昇華されていただろう。

情報に惑わされず怒りに怒りで対抗することなく、本質に立ち返ることが大切です。これまでのやり方ではうまくいきません。むしろ、あなたの感情は狡猾に利用され分断を招くことでしょう。自分の生き方の軸を持つことがこれからはとても重要になってくると思います。

時代は必ず移ろう

ガンジーによって生み出された新しい手法をより進化させるのはいまです。必要なものはすべて揃っています。みなさんにはどうか「力」による抵抗ではなく、「流れ」を生みだす革命の在り方を模索してほしいと願っています。

そして、いずれ覇権がわれわれのもとに移ったとしても、世の移り変わりはまたこれも必然です。その権力もいずれは移ろいゆくのです。

移ろうべき時に移ろい、あるがままを受け入れ、時代を歩んでいく。

みなさんにはそんな王であってほしい。

りなる



参考書籍


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