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ゴクリと唾を3回飲み込む - 身体知のはなし

実家の本棚を眺めていたら、102歳のおばあちゃんが日記を綴った本が目に止まった。なんとなくパラパラとめくりながら読んでしまった。

本の感想とはだいぶそれてしまうのだけれど、最近ぼんやり考えていることがあって、この本をキッカケに思うところをnoteしてみたい。

唾を3回飲み込むといい

この102歳になるおばあちゃん、怒ったり腹が立ったときは「唾を3回飲み込む」んだとか。すると冷静になって言わなくていい余計なことを言わずに済む。これを昔、親だったか祖父母に教わったって言うんですね。

この話をきいて、わたしはしばらく考え込む。

怒りの6秒ルールって知ってますか?突発的な怒りのピークというのは脳内では6秒ほどしか続かない。怒っているとき脳内ではアドレナリンが激しく分泌されることで激情に駆られるのですが、アドレナリン分泌のピークはおよそ6秒しか続かないんだそう。つまり、その間じっとしていられれば冷静な自分が次第にもどってきやすくなるということらしい。このような感情のコントロール法は「アンガーマネージメント」などとも呼ばれていて、聞いたことのある人も多いでしょう。

興味深いことに、この唾を3回飲み込むというアクションは時間にするとだいたい6秒くらい。ほぉー、昔の人の言っていることって、科学的な知識に照らしてみたときに理にかなってたんだと再認識させられることがある。こういったおばあちゃんの知恵袋はいったいどこからもたらされるのだろう。。。

ここでわたしはふと現代人と、ご先祖様の「違い」に思いを巡らせる。われわれ現代人は、知識として説明のつく6秒ルールを文字通り「知っている」。一方でご先祖さまにはこのような科学的知識はなかったでしょうから、むしろ唾を3回飲み込むころには怒りがだいぶやわらぐ、ということを体感として「感じることができた」ということじゃないだろうか?いやそんな違い、実生活に活用できさえすれば、どっちでもよい、と思う人もいるかもしれない。けれども、本当にそうだろうか?

身体知

最近わたしは「身体知」という言葉が気になっています。身体知っていうのは頭の知識と違って、体や感性がそれを覚えている感覚です。例えば、自転車の乗り方を知識として知っていても乗れませんよね?自転車の乗り方を本で読んで知っている。この「記憶している」 ことを 知識と言うなら、知識だけでは自転車には乗れません。一方で、自転車の乗り方を練習して体得している。実際に「乗れる」こと、これが身体知です。

江戸時代に白隠禅師が、心の平静さを保つには呼吸を数えるのが良い、と言っていたのを併せて思い出す。呼吸に意味があるのはもちろんだけれども、「数える」という意識にも意味があるとわたしは思っていて、唾をごくりと3回飲み込む、これを身体知として考えたとき、3回「数える」といったアクションもまた、意味深く感じてしまうのはわたしだけだろうか。

いずれにしても、その本意はわからない、としか言いようがない。怒りに対しての身体知がわたしには育っていないから。

身体がそれを嫌う

近年、学びをスキルの取得とかリスキリングとかいった技術知識の獲得だと考える傾向が強い。わたしはそこに少なからず違和感を感じているのだけれど、身につけるということは知識に限った話ではないはず。

宮大工の小川三夫さんがおっしゃっていた。大工作業を知識として習得しただけではまだまだ未熟で、この知識は次第に体に刷り込まれ、最終的にはそれでなければ身体が「嫌がるようになる」という。

身体や手というもんは言葉のようにはすぐには浸みこまんもんや。覚えるのにも時間がかかるが、手や体に記憶させたことはそうかんたんには忘れん。時間をかけて覚えることは何も悪いことではない。さっさかさっさかやって上っ面だけを撫でて覚えたつもりになっているのは使えないな。
(略)
時間はかかるが一旦身についたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。

小川三夫『棟梁』

これ社会ルールなんかでも一緒のように思うんです。みんなチケット売り場で列に割り込んだりはしませんよね?ルールだから守るっていう単純且つ従順な人もいるかもしれませんが、大多数の人は、列を乱さず順番にチケットを買ったほうが結果的に自分を含めた全員が効率的にチケットを手に入れることが可能だと、これまでの経験を通して体感的に知っているからですよね?すると、割り込んでまでチケットを買うという行為そのものを「身体が嫌がる」ようになる。割り込んでいる人を見て「うわぁ」とドン引きしたりする。これも身体知。

老子の言う「大道廃れて仁義あり」という言葉には、そのような意味を多分に含んでいる。道徳や生活についての身体知が薄れてしまうからこそ、あれをしなさい、これをしてはいけません、といった仁義(ルールの制定)が必要になってしまう。ルールなどなくともわたしたちに身体知が育まれていれば、言われなくとも身体がそれを嫌うようになる。

何かに付けて制度設計にいちゃもんをつける人、二言目には運営にルール化を求めようとする声が多いのは、つまりこの「身体知」が薄れてしまっていることの表れではないか。学びに対する軽薄な態度の結果ではないかと思うのです。

謙虚さ、忍耐、そして継続力

身体知を習得するにはどうすればいいか。これを語りだすと長くなってしまうので、さらりと問題提起だけして終わろうと思う。棟梁の言う通り「身体や手というもんは言葉のようにはすぐには浸みこまん」。すると、その経験に腰を据えて手間暇かけられるか、ということが重要なんじゃないかと思ったりする。

知らない者が知らないことを学ぶのだから、それが本当に将来自分のためになるのかなんて当の本人にこそわからない。学びとは予め提示された答えを覚えることではなくて、自分の身体を修練する試行錯誤がつきまとうもの。

無知の知(ソクラテス)ーーー 自分に知識がないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い、という「謙虚さ」。わからないことをわからないなりに手間暇を惜しまない「忍耐」。それをある程度の知見がたまるまで続けられる「継続力」。今こそこういった力を育む大事さがあるんじゃないか

すると、子供に対する教育、大人にとっての学習、または社会にとっての教養のあり方が、ずいぶんと違って見えてくる。100年前のおばあちゃんにあって、いまのわたしの身体にないもの、、、多くの問題に対する解決の糸口は、わたしたち自身の身体のほうにあるのかもしれない。

そんなことを思った。

りなる



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