見出し画像

言葉を吟味したりさ - 言葉の見た目ばかりを気にすること

言葉の使い方によって知的に見えたり論理武装されているように感じたりします。だから、たくさんの言葉を学んだりキレイでかっこいい言葉を好んで使ったりしています。

言葉は人をつくるものだから、キレイな言葉で身を包むのことは好き。その一方で、こんな風にも思います。

言葉には外見がある。

キレイな女の子をみてウキウキするように、イケメンをみてドキドキするように。。。外見より中身だとはいうけども、それでも本能は外見に魅了されてしまう。同じ様に言葉にも外見があり、多くはその外見に魅了されてしまう。

例えば、流行っているビジネス横文字。コンセンサス、コンプライアンス、コミット、ROI、ソリューション、サステナブル、エシカル、こういった言葉がビジネスだけでなく最近はニュースやTV番組でも使われるようになってきた。説得力があるようでいて、思い返すと何も残っていないこともある。

「コンセンサス」っていう言葉を使うのと「合意」って言葉を使うのでは、そのイシューに関わるステークホルダーにプリミティブにリーチするのはどちらだろう?などと、キャッチーなワードを交えながらマウントを取ろうとする。こういう言葉はみな伝えようとする意思のないファッションと一緒です。

言葉は相手に伝わらないと意味がない。

すると、わたしたちが日常で使っている言葉はもはや言葉ではないのかもしれない。

言葉の外見ばかりを重要視するあまり、その言葉に本来ある本質を見失っているような心持ちになることもしばしば。これは横文字だけではありません。

「多様性」「自由」「自己責任」 こういった言葉も、言葉の持つきれいさばかりをみて、その本質をすっかり見過ごしてしまっているように思います。

もちろん、多様性は素晴らしいし、自由は素晴らしい、自己責任という言葉だって、各々が自らの行動を律する素晴らしい精神です。

でも、じゃぁ「多様性」が尊重されればすべてOKなのか?っていったら、そうじゃない。「多様性」がすばらしいという言葉に思考停止してしまうと、それさえ守られればいい、という極端な考えに行き着いてしまう。

「自由」「多様性」「自己責任」という言葉が輝いてみえるのは、現代社会では「自由」を重んじる時代に生きているからです。それ自体は悪いことでもなんでもありませんが、これだけに執着すると行き着く先は「○○ファースト」という考え方。自分さえ良ければ全て良しという超個人型の振る舞いです。

その対極には、「平等」「共有」「相互扶助」という相反する考え方があります。でも、じゃ「平等」だったらなんでもいいか?っていうと、それもそうじゃありません。その先にあるのは究極的にはみな同じでならなければならないという、すべての人を単一なものとしてみる同調の世界があります。

自由であればすべてよし!平等になればよし!!ではなく、そのちょうどよい塩梅は常にその「あいだ」のグラデーションの中にあります。その軸を探すのが社会に生きるみなさんの在り方です。

言葉の本質をしっかり理解することで、自由という言葉の使い方だったり、平等を求める自分たちがいまどこに立っているのかの道標を知ることができます。

SDGsやエシカルという言葉を追求してみても、コットン100%ならエシカルなのか?レジ袋がなくなればエコなのか?CO2の排出がなくなれば問題は解消するのか?消費社会における果てしない利潤追求によって引き起こされた結果が問題なのであれば、原因とその解決は全く違う視点によってもたらされるでしょう。

おなじように、学校に行くことが大事だとか、子供の個性を尊重すべきだとか、その言葉だけに振り回された議論をしてもあまり意味がありません。答えはグラデーションです。

その「いい塩梅」を探すために何が必要で、何が役に立つのか?

すると、学校の在り方も変わるし、関わり方も変わってきます。

りなる



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?