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客観的な信仰は存在するか(後編)

前回の続きです。

一応、本稿での「信仰」という言葉の定義を改めて確認しておきます。

聖書のヘブライ人への手紙11章1節の言葉をベースとして、

① 神の存在や、聖書の神聖性という見えない事実を検証して得られた信念を土台として、
② その聖書に約束された様々な将来の希望がきっと起こるだろうと信じ続ける

これを信仰の定義としました。

そして、前回は①の部分を考えていく中で、結局のところ
「ある程度の(完全ではない)真実さ」を元に自分の意思で「信じる」と決めなければならない

そして、その意味において、
信仰は主観的であるしかないのではないか
というところまで話を進めました。

今日は、
② 聖書に約束された様々な将来の希望がきっと起こるだろうと信じ続ける

の部分を検討したあとで、全体のまとめをしたいと思います。


将来の希望を信じること


エホバの証人であれば、将来の希望について誰もが一度は思いを馳せたことがおありかと思います。
もちろん、キリスト教徒であれば、そうした希望ゆえに神を信じるのではなく、神を愛するが故に信仰へと至るのですが、
聖書に希望について書かれている以上は、そうした希望を待ち望むのは当然のことであると言えます。

・死者の復活
・楽園へと回復される地球
・悪人がほろびる
・神の王国が到来し、世界は悪魔の支配から解放される
・心身の健康
・不老不死

諸宗派によって見解は違うかもしれませんが、エホバの証人の聖書理解では
こうした将来の希望が聖書に書かれていると考えています。

いずれも、ファンタジーのような「空想」とも思える内容ですが、
信者たちはこうしたことがいずれ実現すると本当に信じています
(私も信じていました。)


これを聞くと、「馬鹿らしい」「夢の世界にいるかわいそうな人々」と感じるかもしれません。


しかし、
信仰の定義に沿っていえば、これこそが「信仰」なのであり、
信じて疑わないという姿勢こそ、敬虔な信者の証であると言える
のです。

もちろん、信者の全員が確信しているわけではないでしょうし、
毎日、強い信仰をキープしているわけでもないでしょう。
苦難を経験した時に「本当に約束は果たされるのだろうか?」と思ったりすることもあると思います。

しかし、基本的なスタンスとして、
聖書で書かれている約束や希望については、将来そうなると信じ続ける
たとえそれが、どんなに現実離れしていたとしても
それを信じることが信仰なのである。
ということです。


映画『ダヴィンチ・コード』だったと思うのですが、
その中で神父さんが
「理解できないからこそ、信じるのだ」
と言っていました。
まさに信仰とはそのようなものなのだと私は思います。


信じる=疑わない

こうして、信仰について考えてみると、
ますます一般のおよそ特定の宗教を信じていない人にとっては、
近寄りがたい話になってきていますが、
彼ら彼女らはなぜそこまで現実離れした希望を「信じ抜く」ことができるのでしょうか?

それは、
前回紹介した「神の存在」や「聖書の神聖性」といった部分を土台にしているからこそ、信じ続けることができるのだと思います。


つまり、
彼ら彼女らは
・本当に不老不死になるのか
と信仰が揺らいでしまうことはあったとしても、
・神が存在する
の部分はそもそも揺らぐことがほとんどない
と言えます。

言い換えれば、
土台が揺らがないので、ちょっとぐらいグラついても
”倒壊”までの大きな事故にはならないということです。

私の出入りしていた会衆の信者の方々もそのような感じだったと思います。

なぜ、彼らは神の存在が揺らがないのかと言われれば、
そもそも彼らにとっては、
神の存在を疑うことがないor疑おうとしない
というのが適当なのではないかと思います。


同じことを繰り返しているだけなのですが、
信じるとは「疑わない」ということです。

また、興味深いことに
エホバの証人から離れていった人たちの多くが、それでも神の存在を信じていたり、聖書に一定の真実性を認めていたりします
こうしたことも、この現象の説明と一致しているように思います。


理論的説得が効かない理由


こうしたことを考えていくと、いろいろと分かってくることがあります。

それは、「信者に対して、教団の欠陥を理論的に説明することの難しさ」であります。

これは、カルト対策の専門家やマインドコントロールの研究者たちが異口同音に述べていることですが、
家族や友人に宗教に入っている方がいて、それをやめさせたいと思っている場合、理論的にその宗教の欠陥やダメな点などを指摘したとしても脱会には繋がらない
ケースがほとんどなのだそうです。

ここまで、読んでくださった皆さまであれば、それはなぜかお分かりだと思います。

そう。
最初に「信じる」という主体的な参加段階を踏んでいるので、
自分たちが信じていることがとっくに”理論”の範疇を超えていると自覚しているのです。

エホバの証人では、
・聖書に書かれていることは科学的にも正確である
・聖書で書かれていることは考古学的にも証明されている
という立場をとっています。

しかし、聖書の記述がたとえ科学と反することや考古学的証拠に反していたとしても、彼らは聖書に対する立場を捨てることはありません。
それが信仰というものだからです。


そんなの盲信じゃないか?

と思われるかもしれません。

(彼らにとっては)そうではありません。
なぜなら、最初に神の存在について、聖書について、組織の教義について、
しっかりと勉強して、「ある程度真実らしい」と納得できたからです。

※1 この点、いわゆる「宗教2世」の信者たちは微妙な立ち位置だと言えます。その方々にとっては、信仰よりも先に信者としての生活が始まるため、「信じる」と決めるというよりは、「当然のものとして受け入れるしかなかった」という感覚が正しいのかもしれません。


※2 ちなみに、この時点でエホバの証人でしばしば取り上げられる「理性的信仰」はやや矛盾していると感じます。彼らは理性の領域を超えて「信じる」ことを推奨しているにもかかわらず、自分たちの信仰は「理性に基づいている」と主張しているためです。


「継続」価値観の影響


さて、そろそろこの記事もまとめに入りたいと思います。

最後にこの点を扱っておきます。

このnoteでは主に「宗教を辞めたいのに辞められない」という方に向けて書いています。

辞められない理由はいろいろあると思いますが、
その一つを今回のテーマに関連して挙げるとすれば、
最初に自分で「信じる」と決めたからです。

信者の方々は何があっても信じ続けるということを先ほど述べました。
これに対して、「盲信」だと感じた方もいると思いますが、
おそらく「辞めたいのに辞められない」タイプの方は
「すごい」、「かっこいい」と思ったのではないですか?

私自身もそう感じていました。

彼らはある意味で、最初に「信じる」と決めた自分の立場を貫いています。

それに引き換え、
私は
「辞めたい」=「信じる」と決めた自分を否定する
ことをしようとしています。


”人として”(この言い方はあまりにも曖昧すぎますが)
どちらが立派なのかと比較してしまい、自己嫌悪に陥ってしまったのです。

これは、「簡単に辞めてはいけない」「継続は力なり」といった社会的価値観も影響していると思います。

嫌なことがあっても、辛抱して続けることを美徳とする風潮は未だ根強いものがあります。
「諦めない」ことのかっこよさは未だに少年漫画で繰り返し表現され、途中で止めることはまるで悪かのような印象さえ受けます。

もちろん、エホバの証人の集会でも、
組織を離れた人たちを「エホバを捨てた」「道を外れた」と表現し、
辞める=悪の価値観を定期的に教え込んでいるので、
たとえ仮面信者であっても辞められない思いを募らせていくことになります。


それでは、辞めることは難しいのでしょうか。


辞める=再選択


私が提案したいのは、
辞める=悪、自分の否定ではなく

「辞めることは人生を再選択することだ」と見方を変えてみてほしいと言うことです。

聖書的に言うならば、人間は不完全な存在であり、
だからこそ過ちを犯します。

ならば、「信じる」と決めたその選択だって、やり直したっていいのではないかと思うのです。

特に、「辞めたいけれど辞められない」と迷っている方の多くは、
「辞めたい」と思うだけの確かな理由があるはずです。


先ほど、信者を理論的に説得することは難しいと書きましたが、
それでは、辞めること自体が困難かと言われればそうではありません。


答えはいたってシンプルです。

自分の「信じる」と決めた態度を再選択する。
これからはもう「信じない」と決めるだけ
です。

再三にわたり書いてきたように、「信仰は主体的・主観的なもの」です。

であるならば、辞める時だって自分の「主体的・主観的な態度」こそが大事です。

それを責められるべき理由は全くもって存在しません。


そのためには、
まずは自分の信じると決めた「諸事実」を再点検してみるところから始めてみてはいかがでしょうか。

そのあとで、自分はどちらの道に行きたいを選び直す、再び信じると決めても構いませんし、これからは違う道を進むと決めても構いません。

いずれにせよ、自分の意思で選び直していってください。


以上、長くなってしまいましたが、信仰についての一考察を終えます。

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