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思考力・自由を奪う聖句10選(Part2)

私は、エホバの証人としてこれまで生きてきて、
聖書を教団の教えに沿って理解してきました。

この教団に疑問を抱いてからは、自分の意思で他の宗派の方の解釈や聖書そのものを読むようになり、
エホバの証人の聖書の解釈が時として、だいぶ信者を生きづらくさせているのではないかと思うようになりました。

その意味で、ずっと書きたかったシリーズが
この「思考力・自由を奪う聖句」シリーズです。

Part1がまだの方は、こちらからご覧ください↓

Part1でも書きましたが、聖書自体に良い悪いがあるとは思っていません。

どちらかと言えば、人の人生に良い影響をもたらしてくれる書物であると、今でも思っています。

しかし、その解釈次第では、人の人生を台無しにしてしまう力をも秘めていると思います。

そこで、今日は「思考力・自由を奪う聖句」を紹介し、それが教団内でどのように解釈されるのか、そして、それがなぜ信者の自由を奪うものとなるのかを解説していきたいと思います。
(Part2なので、4つ目からいきたいと思います。)


4、イザヤ書6章8節

それから私はエホバの声を聞いた。「私は誰を遣わそうか。誰が私たちのために行くだろうか」。そこで私は言った。「ここに私がおります!私を遣わしてください!」

新世界訳(2019)

エホバの証人(JW)の組織内では「預言者イザヤの精神」として有名な聖句です。
JWでは一年に一度、3日間に渡ってひたすら教団幹部の話を聞き続ける「地区大会」というものがあります。

その昼休みで、支部(ベテルと言います)で働きたいという人に向けた説明会が開かれます。
私は興味が持てなくて一度も参加したことはないのですが、毎度のごとく、この聖句が引用されて、すすんで自分を差し出す精神が求められるそうです。


もちろん、進んで誰かのために自分が働くということ自体は悪いことではないと思います。

しかし、これもどこか強制じみた言い方になっているのがちょっとな〜と思っていました。

・私たちも「私がここにおります!私を遣わしてください!」と言った預言者イザヤと同じ気持ちでいます。


いや、同じ気持ちじゃないし。


しかし、わかるでしょうか。
このように書くことによって、「まともなJWなら、そのような気持ちでいて当然だし、そう思えないあなたはちょっとやばいよ。」みたいな印象を与えていると思うのです。

組織のスタンダードを暗にほのめかし、より組織にコミットさせるように仕向けていく点で、この聖句はあまり好きになれませんでした。(しかし、本当に頻繁に登場します。)


エホバの証人は世界一聖書をよく勉強する教団だと言う自負があるようですが、
そこで用いられる聖句には圧倒的に偏りがあると思います。

「哀歌」とか、「ソロモンの歌」とかほとんど引用されません。


なんだか、順序が逆な気がしています

普通は(普通がよくわかりませんが)
聖書を読んで、そこから学べることなどを導き出すのだと思うのですが、
JW組織の場合、
例えば「従順であること」や「高等教育を受けるべきではない」といった組織の教えたい事柄ありきで、それを教えるのに都合の良い聖句を後から探していく、という風にして出版物が作られていると思うのです。

つまり、
聖書→学んだこと
ではなく、
教えたいこと→聖書
という流れです。

もっと言えば、
聖書を教科書・教材にして、自分たちの教え込みたいことを教えている。
ということだとも言えるでしょう。


だいぶ話が逸れてしまいました。

今日はもう一つ紹介して終えたいと思います。


5、フィリピ2章13節

神はご自分の望みを実現させるために皆さんを力づけてくださいます。行動するための意欲と力の両方を与えてくださるのです。

同上

個人的に、この聖句だいぶ厳しいなって思います。

JW界隈では、次のように解釈されます。



疲れていて伝道に行く気が起きない、という時はどうしますか?
行くのをやめてしまいますか。

それともエホバに祈りますか?
「エホバ、伝道に行けるように私にその意欲を与えてください」
と祈ることができます。

フィリピの聖句にあるように、エホバは私たちに「意欲と力の両方」を与えてくださいます。



祈れば、力が与えられるというのは分かります。
「意欲」の部分が危険だなと思うのです。


だいぶ意訳しますよ。

祈れば意欲と力を神が与えてくださる、
ということは。

つまり、
やる気が出なくても、やりたくなくても、命令している通りやれ!
と言ってることと同じじゃないかと思うんです。


やる気が出ないなんて、生きていれば当たり前のようにあります。
そして、やる気の問題ではなく、そもそもやりたくないことだってあります。
しかし、
この「意欲さえも与えられる」という記述はそうした感情を「甘え」として退けます

やる気が出ない奴は祈りが足りないのです。


念の為言っておきますが、私は神がそういうことを望んでいるとは思っていませんし、多分この手紙を書いたパウロもそういう意味で書いていないでしょう。


しかし、ここで指摘しておきたいのは、
そう読めてしまうし、そう読めるようにJW組織が出版物で聖句を引用して教えているということです。


また別の記事でしっかりと書く予定ですが、
この組織のマインドコントロールにハマらないために重要なことが最近わかってきました。

それは

ダメな自分のままでいい

と自分を最大限甘やかしてあげることです。

私もそうですが、エホバの証人になる人の大多数は「真面目な人」であり、「いい人」ではないでしょうか。

すごく真面目なので、自分より他の人を優先したり、自己評価についても、
自分はまだまだだ、
まだ出版物で書かれている基準には達していない
とできていないところに目が向いてしまいがちです。

特に宗教2世の方で、小さい頃から信者である親に細かく指導されてきた方は
より一層この傾向が強いかもしれません。


別にダメでいいじゃん。

そんなダメなところも含めてあなたなんだから。

神はそんなあなたを愛しているよ。


あなたは親友に対してだったら、こうした言葉をきっとかけてあげられると思うのです。
だったら、その言葉をどうして自分にはかけてあげられないのでしょう

ダメな自分でいい。
こう思えるようになると、今日紹介した聖句による洗脳を打ち消すことができます。


あなたは自分自身の最高の伴侶

私の好きな言葉です。

この言葉の通りに生きていきたいな〜と思います。

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