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捨て身による復讐

私がエホバの証人(JW)になったきっかけは母でした。
初めて、聖書の話やJWの話を聞いたのは私がすでに成人してからのことです。

聖書自体には興味があったのと、大学での専門分野との関連性もあって、
母から一緒に聖書を勉強しようと言われて二つ返事でOKを出しました。


しかし、勉強を重ねていくうちに、
徐々に「これは聖書の教えではなくて、この教団の教えなのではないか?」
と思うようになっていきました。

そして、jw流の聖書レッスンにもどこか受け入れ方さを感じていました。

jwの聖書レッスンでは、もちろん聖書を読むには読むのですが、
メインは教団が作成した「聖書を説明した」と称するテキストを読み込んでいき、
その質問に答えるというものです。

その質問が何というか、上から目線で、質問という形を取りながら、実質答えが決められているような感じがしてちょっとイライラしたのを覚えています。


・〇〇したいと思うのはなぜですか?
→私が「〇〇したいと思う」という前提で質問されている

・イエスの贖いを知った人は、どうしたいと思うようになりますか?
→行動も規定されている。「まともな人間ならこう感じるに決まってる」みたいな印象を受けてしまった。


具体例が書けず、ちょっと分かりにくいかもしれませんが、
とにかくなんか嫌な感じで、

答える時は、「(私はともかく)〇〇とテキストには書いてあります。」と言っていました。
※実際に、このようにして答える方は多いようです。


テキストを発行している人の文体は、自分たちがあたかも神の代弁者のような感じで(まあ、そうだと思っているので仕方ない)
「全部、教えてあげますよ〜」みたいなスタンス。

私たち、読者はその基準に達していない未熟で、罪深い存在。

終始、そんな上下関係を感じさせるようなテキストだったと思います。
(ものみの塔の研究記事でも、この感覚に陥ることがしばしばあります。)


しかし、尊敬する母が真剣に信仰している宗教だし、
1914年とかの預言はさておき、道徳的な基準や愛を示すことなどの教理はまあ真っ当なことを言っていると思ったので、レッスンは辞めずに続けていました。

あと、キリスト教というブランドで安心しきっていたみたいなところもあったと思います。
そうは言っても、聖書に書いてないことを教えてくることなんてないだろうと思っていたわけです。


そんなわけで、週に1度くらいのペースでレッスンを続けていたのですが、
テキストを進めていくと、「へ〜、なるほど」と納得できるような部分も当然出てきます。

当時は悪魔の存在などもゲームぐらいでしか聞いたことなかったので、
世の中の悪事や理不尽の原因が悪魔のせいだという話を聞き、
「まあ、神が信じられるなら、悪魔もいるのかもしれない」と思うようになりました。

世の中は悪魔が支配しており、悪魔は巧妙に人々に対して、神が喜ばれないものを受け入れるように仕向けていると言われました。

・音楽
・ゲーム
・映画
・ドラマ

至る所に悪霊的な精神が見られると言われ、
「じゃあ、一体何なら見ていいんだ?」
と思ったのを覚えています。


しかし、私の中で神は存在するかもしれないと思い始めていたので、
こうした教えを否定することが難しくなっていました。


こうして、私は自分の人生において大事なものを捨てていくことになりました。


まず、信者ではない友が有害であると教えられました。
なんでそんなこと言われなければならないんだと思いました。

別に母も悪気があって言っているのではなく、その教えを心から信じているが故にそう教えるのです。


そして、自分の考えに頼ってはいけない、反抗の精神は危険だ。
疑問を持っても学ぶのを辞めてはいけない。それは悪魔の策略だ。
エデンの園で、悪魔がイブを騙すために使ったのが疑念だ。

と言われ、分からなくてもとりあえず神を信じる。それが信仰だと教わりました。



挙句、集会や伝道活動を優先するために、
フルタイムの仕事ではなく、パートタイムの融通の効く仕事を選ぶことを推奨されました。
お金や世の中での成功を追い求める人生はむなしい。
そんなものは価値がないといわんばかりでした。


私には、大学を卒業してやりたい仕事がありました。
それこそ、その仕事が好きで、多少忙しくても楽しいから続けられるだろうと思っていました。

でも、その仕事をすると集会や伝道に欠かさず参加することができません。

もうだいぶ、神の存在を信じていたので、神を裏切ることになるのではないかという恐怖がありました。(恐怖です。それこそ罰が当たるのでは?みたいな感じです。神に申し訳ないみたいな気持ちはありませんでした。)


そして、母を悲しませたくなかった。
成人しても、毎週母と話す時間が取れたことは楽しい部分もありました。
母は、私がこの宗教に入る道を期待していることは明らかでした。


今、書いていてわかるように
もともと義務と責任からこのJWという宗教に足を踏み入れていたと思います。

もちろん、魅力が全くなかったかと言われれば、それは嘘になります。
永遠に生きられればいいな、とか
地球上から貧困や戦争がなくなってほしいという思いにも共感できました。


しかし、ずっとやりたかった仕事を諦めて、この宗教に入るというのはとても辛い選択を強いられました。


繰り返しますが、
もし仮に神への愛がしっかりと育っていて、神への愛や感謝を示すために、仕事に励むよりも、伝道活動に集中したいと”自分の意思で”決めたのであれば、きっと悩むことはあってもそれは悪性のものではないでしょう。


しかし、私は「そうしなければならない。なぜならそれは正しいことだから」という考えでした。だから苦しかった。


結局、私のとった選択は「やけくそ」とも言えるものでした。


フルタイムでやりたかった仕事を諦め、しばらくはバイトで生活していくことにしました。
周りのjwの人々は、私の決定に対してとても喜んでくれたり、褒めてくれたりしました。
本当あの仕事がやりたかったなんて言えませんでした。
自分に嘘をつき、周りの信者の方と話を合わせていきました。
これでよかったのだ。神も喜んでくださるだろう。と言い聞かせました。


しかし、今になって白状しますが、
私はこの選択に半ば復讐めいた思いを込めていたと思います。

つまり、
いわば”破滅的な”選択をして、自分の人生を実際に破滅させることによって、
「ほら、だから嫌だったんだ。教団の教えに従って生きた結果、こんなことになったじゃないか。どうしてくれるのだ。」
といずれ言ってやると思っていた気がします。

「自分の人生を犠牲にすることで、相手に復讐を果たす」というのでしょうか。
捨て身の復讐をしようとしていたと思います。


この心理を言語化しておきたくて、今日はnoteを書きました。

同じように感じる人がどれだけいるのか分かりませんが、この発想は大して成果を収めない上に、自分は大ダメージを受けます
本当におすすめしません!!



だから、今自分が抱えている問題は、自分が招いたものだなと感じます。
あの時、投げやりになって選択したために、今の自分が苦労しているわけです。

とはいえ、今はあまり後悔はしていません。

自分を取り戻せたからなのでしょうか。

これからは、
自分の人生を犠牲にして相手に復讐するのではなく、
相手のことなど気にせず、自分の人生を大切にして生きていきたいと思います。


相手に対する最大の復讐は、自分が幸せになることだ

とどこかの本で読みました。
これを目指していこうと思っています。


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