日々の暮らしに花を添えて、、、

長い間ずっと、妙に心惹かれる言葉が自分の中にあった。

それは「花のある暮らし」という、一見なんの変哲もない響きを含んでいるものなのだ。

でも、その言葉がずっと、無性に気になって仕方がなかった。
ある種の憧れに近いようなものなのかもしれない。
「花のある暮らし」というものの全貌を、少しでも理解したいと必死だった。
具体的な暮らし方から、その暮らしを取り入れている人々に至るまで、どんな些細なことでも、断片的にでも良いので、理解したかったのだ。

でも、どうして私はこんなにも「花のある暮らし」に心を惹かれて止まなかったのだろう。

「心惹かれる」ということに、特別な理由がなくても良いことくらい分かっているつもりなのに、それでも私の頭は、その気持ちの裏にある、何か特別な理由を探しだそうとしていた。

でも、探しても探しても、理由なんて見つからなかった。
そんな日々が続いたある日、ふと、気づいたことがあった。

ああそうだ、きっと、こういうことだったのか!!!

自分自身が妙に腑に落ちたのは、実は、本当に最近の話なのだ。

最近、生活が落ち着いたこともあって、日々の暮らしに余白が生まれ始めた。
そんな中でふと、昔の自分の生活を振り返るようなこともあった。

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都会で日々馬車馬の如く駆け抜けていた頃は、
当然ながら日々の暮らしに、心地よい余白などはなく、
目の前のことをこなすだけで精一杯だった。

余白のない生活を思い出そうとすると、実はその実態を思い出す手がかりが全く掴めない。無味無臭で色彩もない記憶たちは、まるで実態がない存在のよう。ただただ「忙しい」ということへの、何か不思議な警告のような香りは強いものの、それ自体は、微かな残り香のように、かろうじて存在しているような感覚だ。

そんな中で、私は、「日々の暮らしを楽しむ人」が理想だった。そしてそれはまた、夢であり、異次元の人類のような気がしていたのだ。

暮らしを楽しむと一言で言っても、楽しみ方は人それぞれなのが、またその言葉の定義を実体験として感じ取ることが難しい要因だった。

手料理をする、ソーイングをして好きな服を作る、お風呂で映画を見ながらゆっくりする、夕方にシャンパンとおつまみで、くつろぎの時間を設ける、、、

と、その実体験の一例は、どこまでも個人に委ねられている。
だからこそ、「暮らしを楽しむ」を自分が、どこからどのように実践しようかと迷うばかりだったのだ。

そして、とうとうそれを実践できないまま、日々は過ぎ去っていったのだ。

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引っ越しをして、生活が一変し、時間の余白を得ることができた今、改めて「花のある暮らし」に心惹かれると感じている。

日々の暮らしに余白がある今、花のある日常に心惹かれるのであれば、それを実践するチャンスは今しかないと感じ、念願かなって、最近それを実行に移したのだ。

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余白があるからこそ、そこに彩りを添えることができた。
私は時間の余白を、今、色とりどりの花々で満たすことができるようになった。

ここまで来るのに、もしかしたら、少し遠回りをしてしまったかもしれないと思っている。

それでも、今こうして、ようやく、時間の余白に彩が生まれて、
その彩が集まって、時間の豊かさを感じられるようになった。
こんな景色を見られるようになっただけでも、自分はちょっと成長したのだと思う。

そして、今の色とりどりの花々で満たされた自分の時間を、
あの頃の自分への花束にして、
そっと送りたいと思う。

メッセージカードには、こんな言葉を添えよう。

ありがとう!色とりどりの日常が、あなたを待っています

日々の暮らしに余白ができた。だから、その余白に花を添えることができた。
そして、日々の暮らしに花を添えることは、紛れもなく、私の日々の生活に彩りと豊かさを加えることだった。

日々の暮らしに花を添えて、彩りあふれる豊かな日々を生きながら、これからも未来へと一歩ずつ、ちょっとずつ、歩いて行きたいと思った。

<完>

追伸:今回はこちらの企画に参加しております↓改めて、花のある暮らしを見直すことができました!書いていて、参加して楽しくなる投稿企画でした!気になる方は是非😄

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