髙田祥聖の、かたむ句!①【金曜日記事】

君の清貧に菊咲けば菊の花たべてゐるか



俳句同人リブラによるラジオ「リブラジ」の第一回を終えて、この原稿を書いている。録音があるので、それを聞きながら書いているのだが、自分たちのおしゃべりに、拙さゆえの気恥ずかしさと「わたしたちにはなにかできるんじゃないか」という熱量を感じている。
わたしたちは俳句という大樹のもとに集まり、その花を見、葉擦れを聞き、実を食べ、幹に凭れて眠る。四六時中俳句のことだけを考えていたいのだが、俳句だけでは食べていけない。その現実にときに打ちのめされながら、俳句の枝を杖として日常を生きている。
わたしたちはまだまだ「若い」。誰も見たことのない、わたしたち自身も見たことのない花を咲かせたい。一人では、雨や風に負けそうになるときもあるから、句友という存在はほんとうにありがたいと思う。
リブラメンバーとして、髙田祥聖がいちばん最初に書くブログは「句友」の話をしたい。

わたしたちリブラのメンバーは全員 薪句会という句会に参加している。そこでの自己紹介で好きな俳句を挙げるという項目があるのだが、そこでわたしは次の一句を挙げている。

君の清貧に菊咲けば菊の花たべてゐるか

自由律と呼ばれる俳句形式である。清貧は、私欲を捨て、貧しくも心清くあること。キリスト教におけるみっつの誓願のひとつである。清貧という美しくも強い言葉。その言葉が、日本では弔花の側面を持つ菊という季語を導く。そして、その菊の花を「たべてゐるか」と問う。
自由律俳句は有季定型の俳句よりも季語の力が弱い(というよりも季語を季語として使用しない)という認識が、この句と出会ったときのわたしにはあったかもしれない。その認識がひっくり返された。知らない。こんな「菊」の句をわたしは見たことがない。そう思った。

この句の作者は、海藤抱壺という自由律俳人である。

海藤抱壺(本名 寛)は一九〇一年、宮城県仙台市に出生。一九一四年に仙台二中(現在の仙台二高)に入学。肺結核を患い、一九二〇年に退学。この頃より聖書に親しみ、キリスト教に傾倒していく。一九二五年より荻原井泉水に師事し、「層雲」に投稿を開始。以降、一九四〇年九月十八日に亡くなるまで自宅で療養生活を送った。

私が「層雲」を知ったのは大正十四年で、時時見掛ける井泉水先生の俳句に惹きつけられ、漸くにして探しだしたのだつた。その頃は既に孤独寂寥な生活に入つてゐて、滅多に病室を出なくなつてゐた。肺を患つた私は、交際を遠慮すべきだと思つたし、又我身を労はる為にも安静な生活が必要だつたのである。

十七八の頃より聖書に親しんできたその信仰は、求めて徹し得ざる悩みに終始した――俳句に拠つて神に到らう――私は独りさう思ふやうになつた。

海藤抱壺句集『三羽の鶴』

当時不治の病とされていた肺結核に罹り、孤独となっていた青年は、キリスト教と出会い、自由律俳句と出会い、その道に救いと光を見出した。そして、自由律俳句は抱壺の孤独寂寥な闘病生活にひとりの句友をもたらした。漂泊の自由律俳人、種田山頭火である。

抱壺君にだけは是非逢ひたい、幸にして澄太君の温情が仙台までの切符を買つてくれた、十時半の汽車に乗る。
青い山、青い野、私は慰まない、あゝこの憂欝、この苦脳――くづれゆく身心。
六時すぎて仙台着、抱壺君としんみり話す、予期したよりも元気がよいのがうれしい、どちらが果して病人か!
歩々生死、刻々去来。
あたゝかな家庭に落ちついて、病みながらも平安を楽しみつゝある抱壺君、生きてゐられるかぎり生きてゐたまへ。

種田山頭火『旅日記』

昭和十一年に行われた山頭火の東北までの千里行。その念願のひとつは抱壺と会うことであった。文章からは山頭火の期待、昂りが目に見えるようである。放浪の気持ちのままに歩んでいく山頭火と、横臥に暮らす抱壺。対極と言っていい二人の邂逅を、山頭火はこう詠んでいる。

逢へばしみじみ黙つてゐてもかつこうよ

どうしても会いたかった。期待に胸はち切れんばかりだったはずなのに、こうして会うとしみじみとした心持ちになる。お互い話さずにいても、気まずい沈黙ではない。隣に座っているこの男は、今でこそ黙っているが、口を開けばその声を山に響き渡らせる郭公なのだから。
「しみじみ」という語の後に軽い切れがあり、わたしたち読者もその場に立ち会っているかのような感慨になる。対して 抱壺は、

かつこう鳴いてひと日ふた日と泊つて下さる
寂しさわかる心にあへば別れる

と詠んでいる。
郭公の声を一緒に聞けて嬉しい。他愛もない話ができて嬉しい。一日、二日とともに過ごせることが嬉しい。
「ひと日」「ふた日」と感じ入るようなリズムが生み出され、「泊つて下さる」という結びが、抱壺にとって山頭火がどんな存在だったのかを感じさせる。抱壺と山頭火は互いに対極と言っていい存在であったが、対極だったからこそ、理解し得る寂寥があったというのは想像に難くない。
今まで一人で抱えてきたこの寂しさをわかってくれる心に会っている。そして、その心が抱えている寂しさをわたしもまたわかることができる。でも、それも束の間のこと。わたしたちはお別れしなくてはならない。

昭和十五年の秋、ついに抱壺に死が訪れる。

郵便が来て――抱壺の訃を通知されて、驚いたことは驚いたけれど、それは予期しないではない悲報であつた、あゝ抱壺君、君は水仙のやうな人であつた、友としてはあまりに若くて隔てゝはゐたが、いつぞや君を訪ねていつたときのさま/”\のおもひでは尽きない――こみあげる悲しさ淋しさが一句、また一句、水のあふれるやうに句となつた、――抱壺君、君はよく昨日まで生きてくれた、闘病十数年、その苦痛、その努力、そしてその精進、とてもとても私のやうな凡夫どもの出来ることではない、私は改めて君に向かつて頭をさげる。

種田山頭火『一草庵日記』

抱壺逝けるかよ水仙のしほるるごとく

抱壺の死から一か月足らずして、山頭火もまたその放浪の生涯に幕を閉じた。

抱壺と山頭火。この二人のことを考えるとき、句友とは光だと思う。迷いや孤独を晴らし、その先の道を照らしてくれる光。山頭火は抱壺の寂寥を晴らし、抱壺は山頭火を「歩々生死、刻々去来」の心境にたどり着かせた。
子規と漱石。虚子と碧梧桐。友と一言で言っても、さまざまなかたちがあり、その明暗もさまざまである。句友にとって、わたしはどんな光だろうか。あたたかくあるだろうか。やさしくあるだろうか。

傍らに流しているリブラのラジオで、わたしたちの声はほんとうに楽しそうで、ぽっと明るい光が心に灯る。ぎょちゃん、しんちゃん、もっさん、ぎゆーさん、たぶん俺は悲しいときとか淋しいときとか、逆になにかすごく良いことがあったときとか、あの日の夜のことをなにかあるたびに思い出すと思うよ。たぶんね。

【御礼】


内野義悠、髙田祥聖による第一回リブラジをお聞きくださった皆さま、ありがとうございました。未聴の方はXのリブラ公式アカウント(@tenbin819)から録音をお聞きいただけます。また塚本櫻𩵋(@ougyo819)のポストからメンバー一同がおしゃべりしているお疲れさま会の様子をお聞きいただけますので、そちらも併せてお楽しみいただければと思います。
第二回リブラジも企画しております。お楽しみに!

第一回リブラ句会に御参加くださった皆さま、ありがとうございました。第一回に相応しい素敵な会になったと思います。皆さまのおかげです。はじめましての方もすぐ仲良くなれちゃうから、俳句って素敵ですね。
三月には荻窪の鱗さんで第二回リブラ句会を予定しております。皆さまのご参加を心よりお待ちしています。

たくさん書いちゃった! お読みいただき、ありがとうございました!
みんな、ありがとう。だいすきです。

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