髙田祥聖の、かたむ句!④【金曜日記事】
手紙燃す潤目鰯の瞳して
「朝焼小焼だ大漁だ大羽鰯の大漁だ」とお読みになった方は、たいへん恐縮ではあるが、どうかもう一度 冒頭から読んでいただきたい。そのときはできたら、「朝焼小焼だ、大漁だ、大羽鰯の、大漁だ」と改行のところで一拍置いて。
どうだろうか。第一連では、一拍置くたびに、海風が胸に満ちるような、水平線近くで太陽がきらきら輝くような希望が満ちていくのに対し、第二連では、一拍置くたびに、深海に深く深く沈んでいくような、光がどんどん遠くなっていくようなさびしさを感じさせる。
この詩の作者は、金子みすゞ。
今回はみすゞの詩を読みながら、彼女の人生を辿っていきたい。
わたしが所属しているリブラは俳句同人であり、本ブログの読者も俳句を詠む・読む方が多いのは重々承知している。それでも、様々な詩形に触れることで見えてくるものがあるのだと信じたい。お読みくださっているあなたと、一緒に考えてみたい。
金子みすゞ(本名 金子テル)は、明治三十六年 山口県大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれた。仙崎の本屋の娘であったみすゞは女学校卒業後、二十歳になると下関に移り住み、詩作を開始する。
「おさかな」は、大正十二年 『童話』九月号に掲載された詩である。驚くべきことに「おさかな」の他にも、『金の星』『婦人倶楽部』『婦人画報』それぞれの九月号にみすゞの詩が掲載。こうしてみすゞは投稿詩人となっていく。
詩の造りを見ていこう。
七五調で詠まれていることにお気づきだろうか。
うみのさかなは、七音。かわいそう、五音。
おこめはひとに、七音。つくられる、五音。
みすゞの詩に限らず、当時のほとんどの童謡詩は七五調。五七調の重厚感(君が代など。きみがよは、五音。ちよにやちよに、七音)ではなく、七五調の軽やかな調べのものが多く詠まれた。
みすゞの黎明期の黎明期に書かれたと言ってもいい「おさかな」、それをより深く発展させたものが「大漁」である。詩の前半にある豊漁の港町の明るさが、後半で豊漁の喜びは海のなかに生きものたちにとって弔いの悲しみであることに気付かされる。言わば、視点の逆転が起こっているのである。
みすゞが投稿詩人であったということに、驚かれている読者は少なくないだろう。さて、みすゞの評価は如何なるものであったか。
『童話』の選者である西條八十(さいじょうやそ。「歌をわすれたカナリヤはうしろの山にすてましょか」の「かなりや」の作者)は、次のような評を書いている。
当時の投稿詩人のほとんどは男性であり、みすゞも生前は詩集の出版は叶わなかった。芸術の表現者として、女性が認められにくい時代であった。この西條八十の評のなんとあたたかいことか。詩人、作詞家として評価されている西條八十であるが、同時に指導者としての側面も評価されてしかるべきなのかもしれない。
大正十三年、西條八十はソルボンヌ大学留学のために渡仏。選者が変わったことにより『童話』に入選しなくなったみすゞは一時的に投稿先を『赤い鳥』に変え、詩作を継続。八十が帰国すると再び『童話』への投稿を再開するが、その『童話』もみすゞが結婚した大正十五年に廃刊してしまう。
その後、八十が主宰となった『愛誦』に投稿。妻となり、母となったあとも詩を作り続け、『愛誦』には二十以上の作品が掲載された。
ところが、昭和四年に八十は『愛誦』の主宰を降りてしまう。その頃には『赤い鳥』も『金の船』も廃刊になってしまっていた。
投稿者という立場のかなしきかな。
この選者は私の作品を採ってくれる。
この選者は私の作品を絶対に採らない。
作品を投稿したことがある方は、経験があるのではないだろうか。
自分の句を理解し、評価してくれる選者との出会いはなかなかない。
このひとの選でなければならないから投稿するのか、
採ってくれるから投稿しているのか。
採られないから投稿を辞めるのか。
私の好きな詩を紹介させていただく。
この「夢売り」という詩は、とてもやさしくとてつもなくさびしい。
まるでサンタクロースのようにやって来る夢売りだが、やはり夢売りは夢売りなのである。サンタクロースが良い子になら誰でもプレゼントをくれる存在であるのに対し、夢売りはあくまで夢を「売る」。「売る」ということは、そこに金銭が発生するのである。幸せな一年を保証するような初夢を売りに来る夢売りであるが、貧富を解消するような力はない。大枚を叩いたものには金銀財宝光り輝くような初夢を、貧しい裏町の子どもたちにはささやかな倖せの夢を。夢の格差に、夢売りはどんな気持ちになるのだろうか。
俳句には、四季の季語と新年の季語がある。
わたしにとって、この新年の季語たちがなかなかに曲者なのである。
めでたいものをめでたいように。
というのが、わたしにはなかなか難しい。
またお正月は仕事が忙しい時期であるため、心が荒むのである。
「初富士」も「初鳩」も「門松」も「淑気」も「独楽」も、正直わたしは素直に詠むことができない。めでたさよりも、疎外感のほうが勝ってしまうのである。しかしながら、その疎外感を大切にすることがわたしなりの詩につながるのではないだろうか。では、その鬱屈を詠むときに季語の本意とは。
そのやりきれなさを詠んだ句を、取り上げてもらったことがある。
愛媛新聞にある青嵐俳談はいまもわたしがお世話になっている投稿先のひとつ。選というかたちではなく、引用というかたちで句を載せていただくのは初めてのことで、やはり、嬉しかった。
もし採られることがなかったら、いまわたしは投稿を続けることができていたただろうか。採ってもらえる喜びがなければあるいは。
みすゞの話に戻ろう。
投稿先を失ったみすゞは書きためた詩 その数五百十二作を『美しい町』『空のかあさま』『さみしい王女』という三冊の手書き詩集としてまとめ、東京の西條八十と文藝春秋社で編集をしていた弟の上山雅輔に送る。
三冊の詩集を、八十と雅輔と自分の分として計九冊分。千五百三十六の詩を手書きしたという計算になる。
繰り返し言うが、手書きである。手書き。
……くらくらしてくる。
島田忠夫、佐藤よしみなど、親しかった男性投稿仲間たちが次々と詩集を刊行していったにも関わらず、みすゞは生前に詩集を出すことは叶わなかった。八十と雅輔に手書き詩集を送ったのも、もしかしたらそこから良い作品を選んで詩集として出してもらえるかも……、という期待があったのかもしれない。
一九二七年、みすゞは夫からうつされた淋病を発病。臥せることが多くなり、一九三〇年に離婚(手続き上は成立していない)。みすゞは手元で娘を育てたいと要求し、夫も一度はそれを受け入れるも、夫はすぐに考えを翻し親権を要求。
同年三月十日、みすゞは服毒自殺を遂げる。数え二十八歳、二十六歳という早すぎる死であった。
遺された三通の遺書のうちの一通は元夫へ向けたものである。
「あなたがふうちゃんをどうしても連れていきたいというのなら、それは仕方ありません。でも、あなたがふうちゃんに与えられるものはお金であって、心の糧ではありません。私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから、母ミチにあずけてほしいのです」
金子みすゞの詩は長らく忘れられてしまうのだが、童謡詩人の矢崎節男によって再発見され、脚光を浴びることになる。小学校教科書に採用されたこちらの詩をもって、ブログの結びとする。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
みんな、ありがとう。だいすきです。