飛ぶか、飛ばぬか考。【金曜日記事】


                  内野義悠


 日頃から俳句を作るときに、いつもぼんやりと考えていることがあります。

「どうして同じ俳句という定型詩のジャンルなのに、これほどまでに詠まれ方の幅、受け取られ方の幅が広い(或いは狭い)のだろう?」ということです。

 今回リブラという俳句同人誌に誘ってもらって、その思いをより深くしました。これは超結社での同人誌に於いてはかなりの強みかと思うのですが、リブラのメンバー五人は、見事にその句風や目指す俳句のかたちが異なっていたからです。

 よくぞこれだけ多くのバリエーションを持つ俳人がひとつの同人誌に集まったなと、我がことながら感心してしまうくらいでした。

そしてそのバリエーションの多彩さは、かなり大きな捉え方をすれば、俳句に於いての「感覚の飛躍」のさせ方に由来しているのではないかなと思うのです。

ということで今回は「飛ぶ俳句」「飛ばない俳句」みたいなものについて書いてみようと思います。

なお、本当にいつも「ぼんやりと」しか考えていないので、評論みたいな筋道立った論理的な文章は書けません。

 ゆるく書くので、ゆるく読んで頂けたらと思います。

 先日ある句会の後に、自分とは真逆と言って良いほど句風が異なる句友のひとりSさんから冗談交じりに「ぎゆうさんに句を取ってもらえない…。」と言われました。

Sさんとは何度か句座を共にしていますが、言われてみれば確かに彼の句を頂くことはそれほど無かったような気がしました。多くの受賞歴を持ち、その将来を大いに嘱望されている実力派俳人であるにも関わらず、です。

でもぼくが彼の句を取れない理由は自分の中では明白だったので、すぐにこう返しました。「Sさんの句を取れないのは句の良し悪し云々の問題では無くて、Sさん句を見た瞬間にぼくの中で『今の自分の担当ではない俳句』だと判断しちゃってるからだと思います。そのセンサーが働いてしまったら取りようがないし、逆にぼくに取られないことがS本来の持ち味が出ている証左なのでは」と。

こう書くと、なんだか上から目線で嫌みなやつに見えるかも知れません。自分の選の狭さを棚上げして何様だ、と言われればぐぅの音も出ないです。

それでもぼくがこういう基準を持ちながら俳句を読み、選んでいるのは事実ですし、主宰や指導者の立場を目指しているわけでもない駆け出しの一俳人なので、そこは大目に見てもらえたらと思います。あくまで一人の個人的感覚を書いているだけということで。

実際にSさんの句はぼく以外の参加者にはとても評価されていたし、指導に来ていた先生の選もしっかり入っていました。だから彼の句に瑕などは全くなく、句会という縛りを離れて少し俯瞰したところから鑑賞すれば、ぼくにとっても佳い句だなと思える作品なのでした。

ではなぜ句会で取れないのかというところに話を戻すと、結局「俳句的に住んでいる世界が違う」ということなのでは無いかと思います。(ぼくの選句眼が曇っている可能性は、ここでは一旦置いておきます…。)

このような選句の仕方は俳句の可能性のもうひとつの一面を眼前でシャットダウンすることにもなるのでなかなか悩ましいところなのですが、少なくとも句会という場では、自分の感覚をもってシンプルに反応できた句を取っていきたいというのが今の正直な気持ちです。

そしてこの「俳句的に住んでいる世界が違う」と感じることがつまり、Sさんの詠みたい俳句とぼくの詠みたい俳句のそれぞれに必要な「跳躍力」や「濃度」の違いということなのではないでしょうか。

また、一句を成そうとする意識のその出発点や作句過程からすでに大きく異なっていることも、薄々ながらお互い認識しているところだったとも思います。

具体的に述べれば、Sさんの句風は非常に地に足のついたもので、俳句の定型を深く信頼しているのが伝わってくる読んでいて安心できるものです。

片やぼくの句風はかなり感覚的なところがあり、言葉の選択や並べかたも意味性よりも語感や気配の楽しさみたいな曖昧なものを優先しがちです。結果として破調の句も増えてきます。

このあたりをみれば、それぞれが目指す俳句の型に必要としている発想や感覚の跳躍力の差や、濃い味俳句が好きか薄味俳句が好きかといった好みの違いは明白かと思います。

しかし、だからといってSさんとはお互いの句を理解できないと批判しあうこともないですし、多分Sさんとしても最終的にはこのあたりの差異を「俳句的棲み分け」として割り切っているのではないでしょうか。

そもそもが「飛ぶ俳句」と「飛ばない俳句」、どちらが優れているというものでもありません。絵画という同じジャンルの中にも、印象派の絵もあれば象徴主義の絵もある。それと同じです。

今のSさんの俳句はわざわざ飛ぶ必要も無いと思いますし、飛んだことでその句の良さが喪われることも大いにあり得ます。  

逆にぼくの俳句は、今の気持ちに素直に従えばじっとしていたくはない。墜落するリスクを孕んでいたとしても、感覚や言葉の飛躍を楽しみたいというのが基本的なスタンスです。

さらに言えば、一人の俳人の中でもコンディションや時期によって「飛ぶ」「飛ばない」の判断や欲求は絶えず変化するものだとも思います。それに加えて連作の流れの中での句の役割を考慮したときなどに必要に迫られて、「飛ばざるを得ない」「飛んではいけない」というようなケースも出てくることも良くあります。(考えすぎかも知れませんが…。めちゃくちゃめんどくさい俳人ですね…。)

いずれにせよ、人によってそれが意識的か無意識的かは別にしても、こういった「飛ぶ」「飛ばない」の判断が細かく混じり合って「俳句」という文芸の大きな塊を形成しているのでしょうし、一方では「分からない」という分断をももたらしてもいるのではないでしょうか。

また、そもそもこういった俳句的価値観の分岐が起きる要因には、生まれ持った性格・感性に因るところが大いにあるでしょう。そしてもう一つの大きな要因として、初学の頃に触れてきた俳句の属性やそれぞれの結社の風土というものの影響もあるはずです。

生まれて初めて眼を開いた雛が、最初に眼に映ったものを親だと認識して安心感を得るように。

このあたりの俳人の意識形成過程みたいなものもよく考えていることなのですが、これを掘り下げるとめちゃくちゃ長くなりそうなのでまたの機会にしておきます。


と、ここまでもっともらしく語ってしまいましたが、この答え(らしきもの)を得て自分の中で納得できたのは実はつい最近でした。

つい先日、リブラメンバーで俳句について語るスペース「リブラジ」をしょうちゃん(田祥聖さん)とやらせてもらったのですが、その終了後にしばらく雑談をしていました。

 その中で彼がふと「我々は俳句の中の『詩』を見ていたくて、同じように俳句の中の『俳句らしさ』を見ていたい人もたくさんいるんじゃないかな」という意味のことをつぶやいたのです。

しょうちゃんも多彩な俳句を詠める人間ですが、どちらかというと鋭い言語感覚や感性を武器とするタイプの俳人だと思います。

 比較的自分に近い作句姿勢の俳人だと感じているしょうちゃんにこのように言われてみて、ずっと考えていた冒頭の疑問(なぜ俳句という一つの形式の中に、多様な詠まれ方や受け取られ方の広さ(狭さ)が生まれてくるのか?)が、ようやく晴れたような気がしました。

そうか、自分は唯一知っている定型詩である俳句という器を借りて、本質的には「詩」が書きたい人間だったのか、と教えてもらえた気がしたのです。

 そしてまた、俳句という器の中に「俳句」を書きたい人もいる。器を何で満たすかは完全に個々人の自由で、そこに優劣は無いし争う必要も無い。

結局それが「俳諧自由」という俳句の深い懐に繋がっているのかなと思うし、ぼくが俳句を好きな理由もきっとそこにあるのだろうなと思えたのです。

そう思えたからには、「飛ぶ」だとか「飛ばない」だとかそんな小さいことを小難しく意識せずとも、その二つの境界線を越えていつでも自由に往き来できる俳人になりたいし、リブラという同人誌はそれが気持ちよくできる場だと強く感じています。

長々と書いてきましたが、つまりは楽しく俳句やれればもうそれが一番!最高!ってことですね。

ということで、これからもリブラの仲間と一緒に自由に歩かせてもらいながら、少しでもおもしろい俳句を読んでもらえるようにがんばります。おしまいです!

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