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アテナの掌上 - 「ナイツ・テイル」博多座3階席 11/17 ソワレ

 福岡はおろか、今日撮影をした写真はひとつもない。
 劇場に到着したのは開演4分前、劇場を後にしたのは1度目のアンコールが終わったタイミングだった。
 昨年の"僕らこそミュージック"以来の福岡、そして博多座の滞在時間は3時間にも満たないものだった。

 コロナ第6波を警戒し、今のうちに必要な出張をとの指令に出張が急遽決まったのは10日ほど前。

 沢山の方に「行くべき!」と背中を押されて…ならば、行ってやろうではないか!と博多座の「ナイツ・テイル」チケットを探すことになった。
 既にとっている博多座「ナイツ・テイル」のチケットが1階と2階であったこと、なにより博多座の3階が素晴らしいとの噂に迷わず3階席を予約。
 初任地が福岡だった従弟に開演前に軽く腹ごしらえできるところがないかとLINEをしたら、14日から1週間福岡に居るというので、従弟も誘い観劇に出向いた。

 「ナイツ・テイル」については、いずれゆっくり感想をまとめたいと思っているので、今日は観劇記ではなく、ラフなトーンで。
 Twitterで呟こうとしたものを引き伸ばしているので、文体が入り混じっている点、ご容赦を。

 まず、最初に伝えたいことー

 博多座公演に出向くか否か悩んでいる方、迷わず行くことをおすすめします。

 キャストの皆様のつぶやきからも分かってはいたのですが、芝居の深め方を大きく変えてきています。

 大阪公演を観ていない為、確かなことは言えないけれども、帝劇では広い空間をしっかりと「埋める」ことに腐心した演技・演出。そして、博多座は、観客に「届ける」ことにフォーカスしている模様。

 そしてー
 博多座の3階席は至高でした。

 複数回観劇のチャンスがある方、これから追いチケを考えている方、3階席(B席/9,500円)を是非候補に入れて欲しい。
 帝劇の2階後方列でも見えない景色が見られた。客席の傾斜と横に広い舞台が想像以上の広がりを見せる。
 帝劇公演の際「1階前方で没入、1階後方で客観視、2階で俯瞰」と書いたが3階は「アテナの掌上」だ。
 適切な言葉が見つからないのだが、上からアテネを覗き見る(not 覗き込む)感覚だ。
 ここで起きるすべての出来事は女神アテナの掌の上で起きていることだと錯覚させられる。

 出張だったのでオペラグラスは持っていなかったが3階C列でも全く不要。
 舞台は十分に近く、何よりもジョン・ケアードの演出をこれでもかと見せつけてくる。帝劇2階最後列で観た人でさえもその視線の違いを認識できると思うので、これは是非候補に入れて欲しい。
 特定のキャラクターに感情移入しすぎることもなく。また、だからといって他人事のように観るほど遠くはない3階席には舞台の隅々からあらゆる情報と感情が集まってくる。
 個人的には和楽器隊をきちんと見たいという願望が叶ったのが嬉しかった。和楽器隊がシーンごとに前に出てくるのだが、その立ち位置まで含めてよく計算されていることに今更ながら気が付いた。

 また、音響は噂にたがわず最高。
 1幕ラスト、鹿狩りをするシーシアスのファンファーレのなんと鮮やかなこと…!
 そして、芳雄さんが息を飲む音までも綺麗に聴こえた。
 弛緩したり張り詰めたりする空気が観客の頬を撫でたり刃を喉笛に突きつけてくる。これまで聴こえなかった息遣いが手に取るように聴こえ、肌が泡立つというのはこういうことを言うのだと実感。

 視界も良好で、見切れも演出に全く影響ないと言って差し支えないと思う。
 最も見切れを案じていたのは「パンとフローラ」のシーン。ソロを歌うふたりのことだったが無問題。
 何より、2幕ラスト、折井さんのアテナの高音が劇場を満たし光が満ちていくのを堪能できたのが至高だった。
 席数が少ないため、休憩中の3階は客席もソファーも治安がいいというオマケがあることも書き添えておく。


 それから、これは少し長い余談になるが…私は「アドリブ」が好きではない。
 正確にはイレギュラーが起きたときに本筋に戻るための「アドリブ」は歓迎、でもお遊びの「アドリブ」は不要というスタンス。
 例えば、意図せず落とした冠を「くるりんぱ」と言って戻すアドリブは良かったと思うし、舌が回らずに「ちゅるぎ」となってしまい、その日の公演でこのネタを一部で引用したのも有りだ。なぜならばそれはアーサイトやパラモンが真剣勝負の中で犯したミスを、演じる二人の役者がリカバリーしたからだ。
 だが、その後の公演、舌をかんだわけでもないのに意図的に1週間ほど続いた光一さんと井上さんの「ちゅるぎ」合戦ー私としては全くいただけなかった。
 なぜならば、この「ちゅるぎ」合戦はアーサイトとパラモンではなく、堂本光一と井上芳雄のお遊びであるから。2幕後半の度を超えた過度なエヴァンドロスいじりも同様に。

 本気の中で生まれた失敗は真剣勝負の醍醐味があり、くすりとおかしい。さらにはその失敗に対する役者の対応力に感服させられることもしばしばだ。
 だが、本来笑いが不要なシーンで観客を笑わせようというのは姿勢として違うと思うのだ。
 まして、シェイクスピア独特の調べをシェイクスピアのプロであるジョン・ケアードが2021年の今に適応させた英語で脚本にし、今井麻緒子が戯曲のニュアンスを日本人に伝えるため腐心して翻訳した美しい日本語の調べを、あえて崩すことで生まれる魅力はないからである。
 型にはめることで魅力を発揮するシェイクスピア劇では台詞のバランスが難しい。絶妙なバランスの上に成り立つ戯曲は本当に繊細なのだ。

 今日は田舎者のシーンでアーサイトのスカートが落ちてしまうというトラブルがあった。本気の中で出たトラブルやその結果生まれたアドリブは微笑ましく、魅力的であった(もちろん光一さんの対応力あってこそである)。
 それによって、芝居の魅力が失われることはないからだ。

 振り返ってみると、帝劇3-4週目は特にお遊びモードが強く、ナイツ・テイル本来の魅力がどれだけ伝わっていたかと問われれば及第点とは言えなかった。
 ハイレベルな舞台ではあったけれども、見慣れてきた観客を楽しませようという妙なサービス精神が発揮されており。それが物語の弛みにつながってしまっていた。
 個人的に一番いい舞台だったと感じた11/5 ソワレを100点とするならば75-80点だった。(なお、次点以降は11/7 千秋楽→11/4 ソワレ→10/11 ソワレ→11/6 マチネである)
 ハイレベルでのエグゼキューションを実行できるカンパニーだからこそ、自らの行為でレベルを下げる行為を勿体ないと感じたのだ。

 本気の芝居の中で出てしまったミスをリカバリーすることと、本気でできるものを敢えてふざけることは大きく意味が違う。
 100近いステージを連日こなすキャストたちが3時間の舞台に僅かばかりの変化を求め、楽しみを見出していることは容易に想像がつく。
 役者とは究極のルーティーンワーカーであるが、それがルーティーンに見えてしまえばたちどころに顧客=観客を失う仕事だ。
 ルーティーンであるからこそ役者は慣れを恐ろしいと思い、故に様々な工夫を凝らす。その中にお遊びの要素が含まれることも理解できる。
 だが、そんなことをしなくても十分に魅力的な作品を歪めてしまうことを私は残念に思ってしまう質なのだ。


 本題に戻そう。

 10月の最終観劇を終えたとき、この「75-80点モード」で千秋楽まで突き進むのだろうかと些かの不安が過ぎった。
 帝国劇場の11月は6日9公演が予定されていたが、初日開けてからのチケット追加も含め、6日6公演のチケットを持っていた。
 最終週はラストスパートをかけ演技を一気に深めてくるタイミング。
 初演を観られず3年も待った作品だっただけに、本気で対峙するつもりでいたのだ。

 最後の休演日が開けた11/2 ソワレ、それが杞憂であったことを自分の頭で理解・認識できた瞬間は心から安堵した。
 冒頭、アーサイトとパラモンが背中合わせに立ち、照明が明るくなった瞬間、霧散するものがあった。

 カンパニーとして、再度帯を締めたこと、のみならずギアチェンジしたことが随所に現れていたのだ。
 その最たるものが、物語で伝えるべきものをしっかり伝えるという原点に立ち返った点だった。
 件の「ちゅるぎ」はあったがアーサイトとパラモンの台詞として互いに1回ずつ口にしただけで、しつこさはなく、さらりと流れた。客を笑わせようという意識はなかったので観客は特に笑うこともなく、従兄弟同士の戯れ合いを見ることになった。
 これは一例に過ぎない。だが、役としての人生を再度見直し表現し始めたカンパニーは「強力」だった。
 それが、博多座に場所を移し、さらに強くなったという点が作品のファンとしては何とも嬉しいことだった。

 2021年のナイツ・テイルが演目として成熟したのは11/4からだと私は思っている。
 11/4は岸さんがシーシアスのキャラクターを一段シンプルに演じるようになったタイミング。
 シーシアスがヒポリタへの思いをシンプルにぶつける演技にしたことで、彼の中にある純粋さが際立ち、またヒポリタが彼に心を動かされていく過程も見えるようになった。
 11/4は作品として、ひとつの完成形をみた日だと個人的には思っている。

 光一さん演じるアーサイトが歌う「GIFT」ー私は「待っていろよエミーリア」と呼んでいるのだがーがきちんと自分の歌になってきたのもこの頃だった。
 光一さんのアイドルとしてのバックグラウンドをミュージカルナンバーに落とし込んだ小粋な音楽だが、私が初めて観劇した帝劇初日あけてすぐ(10/8 ソワレ)では、アイドル=素の堂本光一らしさを出して歌うのか、ミュージカル的に歌うのかの間で揺れているように聴こえていた。
 このあたりがジョン・ケアードとポール・ゴードンのにくいところだなと思うのだが、役と本人の境目をあいまいにすることで、役者を悩ませる。そしてその先に大きな果実を用意するのだ。
 また、光一さんはどのように体を動かし、声を前に飛ばすのかという点に苦労していたように見えていた。博多座ではこの点、帝劇千秋楽からもう一歩二歩前に進んでおり、歌詞もクリアに聴こえるようになった。
 確実にステップアップしていいものを聴かせてやるという気概がアーサイトのそれと重なり、いいシーンになっていた。

 また、11月に入ってから音月桂さんのエミーリアがフラヴィーナへの思いをストレートに、姫としてではなくひとりの人間として歌うようになった(1幕「フラヴィーナ」)のだが、その情感が一層深まっていたのが、今日のハイライトだった。
 囚われの身となったヒポリタと心がつながる物語序盤の重要シーンなのだけれども、この日はいきなりの熱演に涙がぽろぽろ。客席もぐっとくるものがあって、物語に一気に引き込まれていったと思う。
 このシーンが締まることで物語冒頭の緊張と弛緩のバランスが良くなった。

 個人的に一番響いたのは、パラモンの影の表現。
 井上さんがパラモンの孤独を手厚く演じ始めたことで、物語が一気に深化した。
 これがあると、アーサイトとの対比もはっきり出てくるので、観客の気持ちがよりスムーズに運ばれる。
 何にでもわかりやすい対比をする必要はないけれど、パラモンがシーシアスにとどめをさせない理由、周囲を伺うように、不安げにキョロキョロする瞳の動きといったものが綺麗につながっていく感覚なのだ。

 そして、それはアンサンブルの演技も同じ。
 博多に入って、伝えようという演者の意識が高くなったのか、ひとつひとつの動作がとても丁寧
 オペラグラスを使わずとも=細かな表情が見えなくとも、おもむろに差し出された手や視線の投げ方、首の曲げ方…そういったものの端々に各キャラクターの心の襞が垣間見える。

 アンサンブルに至るまで、芝居を大きく見せるフェーズから細かく積み上げる段階へと変化していて、自分の感情がとにかくスムーズに滑らかに動いていくのが分かる。

 あぁ、こういう芝居が観たかったんだと、ひとり歓喜。

 客席の反応も新鮮で…おそらく初めて見る方が多いのだと思う。
 そこにキャストが真摯に応えていく過程が素晴らしかった。
 多層的かつ重層的な感情が客席に静かに降り注いでくる感覚は帝国劇場では味わえなかったもの。


 舞台はやはり生き物だと思う。
 そして、いい箱はその生き物をこんなにも生き生きさせ、活き活きと魅せてくるものかということをしみじみ実感した夜。

 Twitterに書くために飛行機の中で書いたのですが、思いの外長くなったので、noteに。どこかで、少し追記するかもしれません。

 そして、人生初劇場、初ミュージカルとなった我が従弟殿から井上芳雄さんと音月桂さんに堕ちかけているLINEが送られてきたことを書き残しておきます。

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