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かくて救世への道を往く(6)

ただ、いつものように


 久瀬に抵抗の意志なしと見た五機のアパッチ・ロングボウは、やがて上昇し高空を旋回し始めた。豆粒のように小さくなった機影は月明かりが美しい夜空においても視認が難しく、今や地上にはおだやかな潮風が吹き抜けるのみ。

 しかし、このこと自体は久瀬の自由を全く意味しない。

 アパッチは数キロ単位の遠距離から狙撃に近い攻撃を加えることができる。久瀬は今でこそ大穴を脱して縁近くの平らな場所へ移動し、気絶したみつきを膝枕して自然な姿勢で寝かせてやれているが、ここに至るまでどれほど多くの牽制の銃弾が文字通りの雨となって降り注いできたか。
 また、アパッチは近くを通りかかる海上保安庁の巡視艇なども威嚇して追い払っているようだった。遠くからサーチライトを灯した船舶が近付いてくると、上空から微かに銃声が聞こえてきて、すぐに船舶は転進して姿を消していくのである。

「兵器の進歩ってのは、ほんとロクなもんじゃないな……」

 現代の最先端兵器がどれほどの性能を持っているかは常識程度にわきまえていた久瀬だが、実際に遭遇したアパッチの戦闘能力はみつきのサイコキネシスと同等以上に非現実的だとしか思えなかった。

 そうして、小一時間ほどの沈黙が続いた後――。
 事態はまさに、久瀬の推測通りに運ばれ始めた。

 まず、新手のヘリコプターが一機、東京湾の彼方から飛来してきた。MH-53MペイブロウⅣ。最大で三十七名、貨物ならば八トン強のペイロードを持つ米軍最大の大型ヘリだ。これが大穴のかなり近く、二百メートルほど離れた海沿いに着陸。重厚な乗降ハッチが開き、白衣の男が数名降りてきた。みつきを捕獲するために現れた軍属の医者だろう。
 その直後、陸地の埠頭側から何台もの大型バンやマイクロバス、トラックが走り込んできた。そこから続々と降りてきたのは、暗視装置や小銃で武装した部隊。その総勢、おそらく五十名は下るまい。

「……街の中で俺を狙撃した連中、か」

 彼らはそれぞれインカムを装備しており、どこからか届いてくる指令に従って行動を開始した。久瀬とみつきを中心にして一定の距離を取った包囲網を敷いていく。コンテナやフェンス、地面の隆起や窪みなどを盾にして射撃姿勢を取る。
 その動き方が尋常ではなかった。各人の身のこなしに個人差が全くなく、無駄も滞りも一切感じられない。どれだけ訓練すればこれほどの統御が可能になるのだろう。

 本当にあっという間だ。
 久瀬とみつきは筋金入りの職業軍人たちに完全に取り囲まれた。
 三百六十度、完全に逃げ道を塞いだ上で、狙撃銃の射程内に捉えられてしまう。

 そして、完全なる包囲網の仕上げとばかりに、上空のアパッチも高度を下げてきた。非致死性兵器も焦点を合わせ終え、チェーンガンの狙いもつけて。

「よくも今まで生きてられたな、俺は……」

 超能力者を捕獲するための偽装だったとしても、彼らが久瀬を殺そうとしたことは確かなのだ。みつきや綾、瑤子はよくもこんな連中を相手に自分を守り続けてくれたものだとつくづく感心する。

(だからこそ、万全を期して備えない限り、彼女らには……日向には近付けない、か)

 ここで、ようやく。

「ん、っ……う……」

 気絶していたみつきの目が、開き始めた。

「日向、気がついたか?」

 みつきの意識は完全に覚醒していないようだ。久瀬に向いた視線も定まらず、瞼は震えている。

「眼鏡、返しておくよ。すっかり歪んでるが……自分でかけられるか?」

 みつきは差し出された眼鏡を受け取ろうとしたが、取り落としてしまう。非致死性兵器によって強制された激痛の余韻なのだろう、手が震えている。

 久瀬は苦笑し、片手でフレームを広げて眼鏡をかけさせた。
 みつきは首を起こし、周囲を確かめる。

 眼鏡越しの光景に、顔が青ざめてくる。

「く、っ……久瀬さ……ああっ、そうだ……!」

 状況に思い至って慌てて跳ね起きようとする。が、腰が立たない。久瀬は慌ててみつきを抱き留め、身体を横にする。それは彼女の身を案じてというより、取り囲む狙撃手やアパッチが行動を起こす気配を見せたことにゾッとしたからだ。

「無理をするな、じっとしてろ。下手に動けばまた、さっきみたいな目に遭うだけだぞ」
「に、逃げて、早く……私は、いいからっ……」
「それは逆だ。逃げなきゃいけないのは君の方だ」
「わ、た……し?」
「つまりな……いや、どのみち逃げられないんだ。君も俺も。見たらわかるだろ」
「で、っ、でも……身体の、痺れさえ、取れ……っ、たら……」
「本当に何とかなるのか? さっきはあの物騒なヘリだけでも勝てなかったのに」

 問いの答えは、そのままみつきの絶望的な顔に出た。

「だよな。わかってる。いいから今はとにかく休め。痺れが取れるまで。いざって時に君が動けないと、俺も困る」

 落ち着き払った声だった。
 その態度が、みつきには不思議でたまらない。

「ま……さ、か? 勝ち目、ある、とか」
「あったらいいんだけどな」
「じゃあ、今、なんで……。いざ、って……」
「考えてるんだ」
「なにを……?」

 久瀬は答えない。視線もみつきから外れていた。
 彼が見ているのは、周囲を取り囲む狙撃手か。低空まで降りてきているアパッチか。

「連中だって、同じ人間なんだ。それだけは、間違いないんだよ。絶対に」

 呟いた久瀬の脳裏で、どういう思考が行き交っているのか。みつきには想像もつかなかったが、それを問い質す気にはならなかった。

 見上げている久瀬の顔が、真剣だったから。

 彼の腕に抱かれていることも忘れて、その真剣な顔を呆然と見つめる。鋭い眼差しと真一文字に結ばれた唇は、不思議と――頼もしく、見えた。
 自分が気絶しているうちに別人になった、とすら感じた。
 これまでのようにただ慌てふためき、場違いとしか思えない発言を繰り返し、自分が全幅の信頼を置いている綾にすらけちをつけてみせた格好悪い男の姿は、どこにも見出せなかった。
 ああ、これがこの人の本当の顔なのだろう、瓦礫の山と化していた東京を立ち直らせた大人の男の顔なのだろう、と、みつきが理屈抜きに納得しかけた時。

 自分の胸元から凝と注がれていた視線に気付いて、久瀬がふと、みつきの方を向く。

 驚いたみつきは、慌てて目を逸らせた。
 別に、驚く理由も、慌てる必要もなかったのに。

 そうして逸らせた視線の先に、たまたま遠くの埠頭が目に入る。工作員や特殊部隊の連中が乗ってきた大型バンやトラックが居並ぶ場所だ。一台の例外もなくエンジンはかけっ放し、ヘッドライトは消されてハザードランプが点滅を続けていて、ドアも乗員が降りる際に開け放たれてそのままだった。

 ただ、一台の三トントラックのみ、ヘッドライトが消えていない。扉も全て閉じてある。

「あ、れ……」

 みつきが、その奇妙な一台に気付いた直後。
 ヘッドライトが消え、扉が開いた。中に乗っていた連中が降りてくる。サイクルウェアを始めとした統一感のない服装の外国人が十名弱と、そして。

「……?! あ、綾! なんで……」

 解かれたままの長い黒髪がアパッチの下降気流に煽られて、彼女の端正な顔が月明かりの元に晒された。誰かに殴られたのか、左の頬に大きな痣があって、口の端から滴った血の跡も残っている。彼女の着ているジャケットやシャツにも赤い染みが広がっていた。さらに、金属製の手枷で両腕を繋がれている。扱いは捕虜や囚人と何も変わらない。

「く、くく……久瀬さ……っ! あ、綾……綾がっ」
「ああ、見えてるよ。無事だったのか」

 久瀬は最悪、綾が殺されている可能性も考えていたからこう言ったのだが。

「あ、あれのどこが……無事なのよっ!」

 そのみつきの動揺は、綾の後ろに続いてトラックから降ろされた瑤子の姿を見た瞬間に凍り付いた。両手両足を頑丈なベルトで縛り上げ、体格のいい男の肩に担がれている。口元にも猿轡のような器具を噛まされていた。EXを封じるためだろう。一切の自由を奪われているようだった。
 瑤子はそんな状態でなお抵抗の意志を失っていないらしく、男の肩の上で小さな身体がしきりに動いている。しかしそれは、文字通りの無駄な足掻きだった。

「よ……うこ、までっ……」

 みつきの目が充血して涙がにじむ。声が震える。

「日向、おい、落ち着け。変な気を起こすな」
「落ち着ける……方が、どうかしてるよっ……!!」

 久瀬の制止を無視し、起きあがろうとするみつきの手が地面を掴む。すでにパッシブ・キャリバーを解放しているらしく、まるでスポンジでも掴むように力を込めた指先が地面にめり込む。

「衝動的に動くなッ!! 下手をすればお前が昭月や大地を殺すことになるんだぞ!!」

 久瀬の大喝に、みつきの身体が震えた。

「なるべく簡単に言うぞ。十中八九、昭月と大地はこれ以上傷つけられやしない。だから落ち着け。抵抗しない限りは絶対に安全だ」
「な、んで、そんな……こと、言えるのよっ……」
「連中が今まで取ってきた手段からして、確かに俺たちはいつ死んでいても不思議じゃなかった。状況次第で殺害もやむなしという判断は折り込まれていたんだろう。でもよく見ろ。誰だって自分や自分の身内が殺されるとわかれば死を覚悟で抵抗するもんだが、少なくとも昭月にその様子はない。降伏と引き替えに命の安全が保証されてるんだよ。連中が君らの生け捕りを目論んでる何よりの証拠だ。わかるな?」

 早口でまくし立てた久瀬の言葉をみつきは半分も理解していなかったが、彼の勢いに押される格好で思わず首を縦に振っていた。

「多分、奴らの作戦は仕上げに入ってる。この布陣も、どうすれば最後の一人、つまり君を安全かつ確実に捕まえられるかって作戦の一部だろう。力押しだけじゃ万に一つも勝ち目はない。その意味では、君が気絶した間に何もかも終わったんだ。……もうじき誰かが、俺と君を捕らえるためにここへ来る。問題は、そこで活路を見出せるかどうかだ」
「久瀬、さ……」
「正直、活路なんてどこにもないって気もするんだけどな……。ただ、無理を承知で頼む。ダメモトで俺に任せてくれ」

 みつきは頷かなかった。が、拒みもしなかった。
 その話が終わってすぐ、連中は一人の女を二人の元へ寄越してくる。

 昭月綾。

「……君が来るとは思わなかったな」

 アパッチのローター音と渦巻く下降気流の中、久瀬の声はどうしても大きくなる。綾はほんの数歩先に立っているのだが、ほとんど怒鳴るも同然だった。

「私もよ、こんなことをやらされるなんてね」

 綾も大声で返してきた。長い髪が風に煽られ、何度首を振っても顔にまとわりつく。手枷のせいで自由に手も使えず、ひどく不自由そうだ。

「ねえ、みつき? 無事なの?」

 綾のこの問いは、あきらかにみつき本人に向けたものだったのだが。

「心配しなくていい。少し弱ってるが、日向は元気だよ」

 答えたのは久瀬だ。答えようとしたみつきの口元を、そっと手で塞いだ上で。
 驚いたみつきが目を瞬かせると、久瀬は「任せてくれって、言ったろう?」と抑えた声で念を押した。

「昭月の方も大変だったんじゃないのか。その顔。痕が残ったら、大変だ」
「これ? ああ、大丈夫よ、大したことは」
「すまなかった、俺のせいだ」
「あなたの? 違うわ、これは私が……」
「連中が俺じゃなく、君らを狙ってることに気付いてたんだ。かなり早い段階で。ただ、それを説得力のある言葉で伝えられなくてな。悔やんでも仕方ないが、もしそうわかっていれば、ここまで追い込まれる前に、打てる手はいくらでもあったと思う」

 綾が心底驚いた顔をした。珍しいことだ。

「久瀬さん……あなたも、ESP能力者だったの?」
「まさか。正真正銘、無力な普通の人間だ」

 綾はしばらく言葉を失っていた。
 が、すぐに苦笑を見せて。

「さすがに、山形さんの後継なのね。あなた……」
「ところで、連中の言い分を聞かせてくれないか」
「あ、いえ……。これは、みつきと直接話さないと」
「連中がここで要求してくることなんて、およそ想像はできるよ。君を差し向けてきた理由もな。昭月が投降しろと言えば日向は無視できないし、大地が人質に取られていれば下手な行動も起こせない。しかも、これだけの重大な作戦を任せられる選りすぐりの部隊を失いかねない危険にも晒さずに済む。合理的だな、腹立たしいくらいに」
「…………」
「ただ、その話に『俺が』従うかどうかは話が別だ。連中の責任者と話がしたい」
「それは無理よ」

 綾の即答。

「交渉の余地はないと念を押されているし、私に指示を与えた人も上からの命令を伝えてきただけ。現場の指揮官はいても、作戦そのものの責任者は一人もいないのよ。それに久瀬さん、あなたもすでに人質なのよ」
「俺が?」
「昨夜、私たちが保護して警察にあずけた松永泰紀さんね……。連中、彼のこともサンプルとして手に入れたいらしくて。今なら私の暗示を解けばすぐに極過型のサイコキネシス超能力者に逆戻りだもの」
「まさか……俺を使って、人質交換以下の取り引きを日本政府とやる気なのか?!」
「連中の作戦は、最初からそこまで視野に入っていたらしいわ。ひどい話だけれど」
「ちょ、ちょっと綾、そんな……!!」

 さすがにみつきも顔色を変える。昨夜、自分があれだけ苦労して丸く収めたのだから当然だろう。心中穏やかでいられるはずがない。しかし。

「ふざけるなっ……!! 何だ、それはっ!!!!」

 みつきよりはるかに早く、久瀬の方が激怒した。

「この際、俺の身柄なんてどうだっていい! ヤツらは日本政府に日本人を拉致させて売り渡せと言ってるんだぞ! まるっきりテロリストのやり口じゃないか! それが同盟国や友好国を相手にやることかっ!」
「むしろ同盟国だから、後でなあなあの処理が可能だと踏んでいるのよ。特に首都圏大震災以後の日本は、表でも裏でも諸外国に借りこそあれ貸しなんてない。連中には何もかも自分たちの好きにできるシナリオを描ける自信があるのでしょう」

 綾の補足はおそらく真実だろうが、だからこそ、なおさら久瀬の怒りは増していく。

「冗談じゃ……冗談じゃないっ……!!」

 その怒りようを間近で見ていたみつきが慌てて、

「く、久瀬さん、ね、落ち着いて、ちょっと」
「これで落ち着いていられるかっ!」
「それもあるけど、そうじゃなくて……ちょっと、痛いの、肩。力、入れないで」
「あ、わ、悪い」

 みつきを抱いている手から、慌てて力を抜く。

「こういう時こそ、冷静に、冷静に」
「……わかってる」

 これを見た綾が、不思議そうに片眉をつり上げた。

「二人とも、この短い間でずいぶん仲良くなったのね?」

 言われて思わず、久瀬とみつきが顔を跳ね上げる。二人同時に。

「だから言ったのよ、みつき。割といい男だって」

 どう言えばいいのかと久瀬が口をもごもごさせている間に、みつきが叫ぶ。

「ば、っ、馬鹿言ってる場合じゃないでしょ! このままじゃあんた彼氏に連絡一つ残さず蒸発することになんのよ?! 私だってお父さんやお母さんに恩返しもしてないのに!」
「うちの彼は私の素性を知っているし、急にいなくなっても察しはつくでしょう。あなたの養父母には後日に政府から連絡も行くはず。大丈夫よ」
「そういうのは大丈夫って言わないっつーの!!」
「なら言い換えるわ。何をやっても無駄。自殺行為。だから諦めなさい。向こうには低レベルとはいえ訓練されたESP能力者の部隊までいるのよ。瑤子を担いでいる大男の周囲八人、全員そう」
「……は?」
「連中は、普通の兵士たちに先んじて必ず行動を起こすわ。こちらの感情の動きもすべて筒抜けよ。あなたが抱いた敵意を行動に移そうとしたその途端、誰かが必ず死ぬ。これは予知だと思いなさい。死にたくなければ屈服するしかないの」

 綾のその言葉は、みつきにとってよほど効いたようだ。顔から一気に生気が失せ、黙り込む。こぼれ落ちそうなほど目の端に涙を溜め、唇を噛んだ。

「結局、こんなものね。三年前に逆戻り。短い間だったけれど、楽しかったわ」

 溜め息をつき、綾は目を伏せる。

「……研究所での生活は、そんなに酷かったのか」

 二人の落胆をいま一つ理解しきれていない久瀬が、みつきにそう訊いた。しかし、みつきは久瀬の顔も見ず、静かに肩を震わせているだけだ。
 それを見て、久瀬は心底、本気になった。

「さ、行きましょう。みつき、歩けるの? 久瀬さん、悪いけれどその子を抱え……」

 綾がそう言い、投降を促すと。
 久瀬が急にみつきの身体へ覆い被さり、固く抱きしめた。傍目には恋人同士の抱擁にしか見えない。綾が目を見張る。もちろん、いきなり抱きしめられたみつきの驚きはもっと大きかった。

「く、っ……久瀬さ……? えと、えと……」
「……本当に、俺たちに勝ち目はないのか」

 抱き合ったことで、久瀬の耳はみつきの口元にある。下降気流が吹き荒ぶ中でも、囁くような声で充分会話は成り立った。

「本当は昭月も交えて話したいが、彼女にはマイクか何かが仕掛けられている可能性が高い。頼りは君だけだ。だから、もう一度考えてみてくれ」
「え、あ……ああ、そういう……。ないよ、もう……。綾まで諦めちゃってるのに」

 みつきの声音は本当に暗かった。希望など何も感じられなかった。
 しかし。

「昭月が諦めてなければ、どうにかなるって風に聞こえるが」

 極めて冷静に、理知的に、そう切り返すと。

「……なると、思うよ、思うけど……」

 みつきから、希望の一言を引き出した。

「それに賭ける価値はあるか」
「……へっ?」
「君ら全員、俺も含めて本当に助かるのか。シビアに考えろ、甘い目算はいらない。酷かもしれんが、どんな地獄でも死ぬよりマシだって話はある。ただ、勝ち目が少しでもあるなら別だ。だから教えてくれ。どういう状況になれば勝ち目が出てくる」
「え、えと……綾がいて、瑤子がいて、私がいて」
「それで?」
「ほんのちょっと、みんなが自由に動けたら……。でも無理だよ、瑤子なんて、あんな」
「ちょっとって、どれだけだ。時間にして」
「……一分。ううん、三十秒でも」

 久瀬が思わず、目を丸くする。

「ユニゾンって言う方法があるんだけど、でも、それは綾だって知ってるんだから……。その上でダメだ、どうしようもないって言ってるんだもん、ユニゾンのチャンスはないよ。綾の予知能力はね、そのくらい……あ、あれ? 久瀬さん?」

 話の途中で、久瀬は顔を上げた。

 いきなり達成すべき目標のハードルが大きく下がった。
 ほんのわずかな間、あの三人を自由にしてやるだけでいい。

 そんなことで勝機が出てくるとは久瀬には信じられなかったが、この際、自分が信じられるかどうかは問題ではない。これまでの言動を振り返ってみても、彼女らは間違いなく逆境を何度も越えてきた筋金入りのエキスパートだ。その言葉は重いと見る。

「……俺の職分だ。ここからは」

 学者やシンクタンクなどの専門職(スペシャリスト)や技官(テクノクラート)に対し、超万能選手(スーパーゼネラリスト)と称されるキャリア官僚。その本分は、人々が最大限に力を発揮できる環境の構築を目指して情報をかき集め、調整に奔走し、あらゆる可能性を考慮してお膳立てを整えていくことにある。
 考える時は終わった。実行あるのみ。世の中はいつだって狸と狐の化かし合いだが、最後に勝つのは信念のある方だ。躊躇うな。手段を選ぶな。少しの時間ぐらい稼いでみせる。

 久瀬は決意し、みつきの身体から手を離す。

「久瀬、さん?」

 戸惑うみつきに、久瀬は苦笑を返す。

「本当に今夜は酷い夜だ。自分の常識が何度覆ったか知れない。……その俺の気持ちを、何分の一かだけでも、連中に思い知らせてやる」
「……?」
「君の痺れは取れたのか。声も普通に戻ってるが」
「あ……」
「俺が戻るまで変な気は起こすなよ。そして、もし失敗したら、自分は無関係だと主張して投稿しろ」

 久瀬はみつきに貸したままの背広のポケットを探る。

 取り出したのは、国家公務員の身分証名称。
 そこに記された、内閣情報調査室という文字を――己の拠り所を、暫し、見つめて。

「……骨の髄まで官僚なんだな、俺は」

 名前でなく、個人でなく、肩書きで仕事をするのが官僚だ。
 だから、十把一絡げに扱われる。個人としては絶対に評価されない。
 それを悔しいと思ってきたこともある。

 けれど、肩書きで仕事をする類の人間でなければ、できないこともある。

 身分証を手にしたまま、久瀬は立ち上がった。

「昭月もここから動くな。相手の指示にも従うな。何もするな。後は俺がやる」
「どういうこと? ちょっとあなた、何をする気で……」

 答えず、歩き出す。綾の方へ向かう。

「すぐ戻る」

 言い残して、そのまま綾の脇を通り過ぎた。

 これで、包囲網を敷いている連中がにわかに殺気立った。特に狙撃手だ。三百六十度をぐるりと取り囲む銃口のほとんどが久瀬を狙う。

 しかし、久瀬は怯まない。歩みを止めない。

ざっと六、七十メートル先、自分を取り巻く包囲部隊の一画。ESPを持つ兵士に拘束されている瑤子がいるところへ真っ直ぐに歩いていく。

(まずは、そこまで届くかどうかだ)

 身分証を握りしめた手に、汗が滲む。

 道のりの約半分、残り三十メートル付近で敵が動いた。ESP部隊を守るように十名ほどの特殊部隊員が集まって壁を作り、その内の一人がインカムからの指示を受けて発砲。銃声が響きわたった。

 しかし、いきなり久瀬を撃ち殺しはしなかった。
 発射された銃弾は久瀬の足元で跳ねた。

 そう、今ならこうなるはずだ。これでいい。

 久瀬は、そこに潜む勝機を確信する。

「内閣情報調査室の事務官、久瀬隆平だ!」

 足を止め、身分証を頭上にかざして大声で叫ぶ。

 この包囲網には指揮官らしき者が存在せず、変わりに全員がインカムを装備している。どこか遠くにある合同の司令部――CIAを始めとした各国情報機関の統合本部から直接命令を受けているのは確実だ。
 綾のESPに対抗する目的もあるだろうが、友好国の首都を戦場扱いする作戦で現場の兵士に勝手な行動はさせられないから、当然の措置だろう。
 逆に言えば、司令部が常に適切な命令を下せるよう、現場の最新状況を把握し続ける必要があるはずで、この久瀬の声も何らかの手段で司令部まで届いているはずだった。

「自分は、今件の責任者として一切の処理を任されている。自分の発言は日本政府の意思だと思ってもらって差し支えない。そちらの要求はさきほど聞かせてもらったが……諸官に日本語は通じているのか。何なら以後、英語で話すが」

 幸いにも通じたようだ。久瀬が武器を持っていないことをESP能力者が感知した後、小銃にセフティをかけた兵士が二人ほど近付いてくる。
 が、久瀬は大胆にも、己を拘束しようとした兵士の手を振り払った。

「不当に拘束される謂われはない! これ以上調子に乗るな!!」

 そして、拘束に来た兵士に向かって怒声に近い大声を浴びせかける。
 正確には、彼がつけているインカムに向かって。その向こうにある司令部へ向かって。

「それとも、こんな若造が責任者だと信じられないのか? いいかよく聞け、日本政府は最近になって、超能力者が関係する案件について大きな方針転換をしたんだ! 俺の上司だった山形も種々の責任を取る形で担当を外されている! それを受けて俺に役目が回ってきたんだ! わかるか、内調の内部で組織再編があったばかりなんだ! 今の内調は、各国諸官の知る内調ではない! 従来とは方針がまるで違うんだっ!」

 久瀬はCIAやSISといった情報機関の内情などは全く知らない。特に英国SISは007シリーズなどの娯楽映画に何度となく登場するほど世界的に有名でありながら、つい最近まで英国政府はその存在を公に認めていなかったほどだ。
 ならば、情報調査室の内情に関しては、いくらでも嘘がつけるはずだった。そして、その嘘の説得力は、久瀬の身分そのものが与えてくれることになる。

「俺が携帯電話を使って三人に連絡を取ったことも、その証拠と思ってくれていい! そもそも情報機関の人間があれほど素人臭いミスを犯すか? さも狙ってくれと言わんばかりの場所であの三人と会ったりするか? あえて情報をリークするつもりだったとなぜ考えなかった! ……確かに方法は滅茶苦茶だ。情報機関における慣例を無視した自覚もある。適切なルートで事前通告すべきだし、その手間を省いた落ち度がこちらにあったことは率直に認める。しかし事態は急を要した。即時の情報共有を最優先とするなら、これが最善だったと俺は信じる。現にこうして、諸官の耳には余すことなく届いているわけだからな!」

 我ながら、無理矢理な屁理屈だと呆れる。
 しかし、それでいい。
 もしも情報調査室が無能者の集団でなければ――みつきや綾、瑤子が言ったとおりに信頼に値する力を持った組織であるのなら、屁理屈も立派な理屈になりうる。

「なのに今夜のバカ騒ぎは何だ! こちらの意図を汲みもせず、まず様子を見ようという慎重さもなく、どいつもこいつも欲の皮突っ張らせて好き勝手やりやがって! そんなに超能力者が欲しいのか! だったら少しは頭を使え! この三人は囚人みたいな生活に嫌気が差して逃げ出したんだぞ?! こんな風に力ずくで押さえ込めばまた禍根が残って、三年前に逃亡を決意した時の愚行を繰り返すことになる! そういう考え方すらできないから、今まで俺たち極東の島国のちっぽけな情報機関が幅を利かせてたんだろうが!!」

 これは、幾多の情報から導ける揺るぎない真実。そのはずだ。
 嘘を信じ込ませるための、重要な一ピース。

「そのインカム、貸してくれ。君らの司令部へ確実にこちらの声を届かせたい」

 久瀬が目の前の兵士二人に要求する。渋っていたのはわずかな間だけで、片方が受送信を行う掌大の本体とヘッドセット一式をすぐに手渡してきた。
 ただし、設定を送信のみに切り替えてある。イヤホンからは何も聞こえてこない。
 通信機一つで今の状況が覆る訳でなし、何の力もない若手官僚の戯れ言程度は聞いておこうと思ったのか。

 その余裕が、久瀬の付け入る隙になる。

「……これからこちらの要求を述べる。関係諸官の熟慮と適切な判断を期待する」

 インカムの本体をシャツの胸ポケットへ入れ、久瀬はまた歩き始める。兵士二人の脇を通り過ぎる。

「まず、拘束された大地瑤子の解放。それから、戦闘ヘリやこの場所にいる者全員の即時撤退。この要求は呑めるはずだと確信する」

 これを、周囲の兵士や現場の指揮官、司令部はどう受け取るか。決まっている。なにを馬鹿なことをと呆れ返っているだろう。

 今はそれでいい。
 この要求は、久瀬が真に達成すべき目的への布石に過ぎない。

 歩き続ける久瀬は、やがてESP部隊を守る特殊部隊員の壁にまで辿り着いた。至近距離でなお自分を狙い続けている小銃の銃口に恐怖をおぼえるものの、ここまで無傷で来られただけで奇跡的だろう。

 しかし足りない。
 もう一回り大きな奇跡が要る。

「彼女を下ろせ」

 特殊部隊の向こう、瑤子の小さな身体を肩に担いだ大柄なESP能力者に、久瀬は堂々と言い放つ。

「大地瑤子は、まだ日本政府の管理下にある。手荒に扱うことは断じて許さない」

 この要求ばかりは相手も簡単に呑みはしない。当然だ。瑤子を押さえることで綾を従属させているのだし、ひいてはみつきの行動を封じることにも直結する。
 凄んでみせた久瀬以上に凄みを利かせて、ESP能力者や特殊部隊員が睨み返してくる。

「拘束や無理強いは愚行だと何度言わせる気だ? 俺は超能力研究が具体的にどう進むのか詳しく知らないが、彼女らが自発的に参加してくれた方が都合はいいはずだ。違うか」

 ここで久瀬、芝居がかった大きな息を一つ吐いて。

「……驚くなよ。彼女らは既に、日本の庇護下を離れることと、他国の超能力研究を進める手助けをすること、この二つに同意してくれた。条件付きではあるがな」

 さらに、あえて一呼吸を入れてから。

「はっきり言う。日本政府と俺たち内調は、これ以上彼女らの面倒を見切れない。情報操作に隠蔽工作、いくら予算と人員があっても足りやしないんだ。それくらい察しはつくだろう。ただ、だからって彼女らを切り捨てて、ヨソの国に厄介払いのごとく押しつけるのは下策も下策。日本政府は無能だと世界中から笑われるし、彼女ら三人からも総スカンだ。だから俺たちは、これまで不可能と思われてきた交渉に挑んで成功させた。……もう一度言うぞ。俺たち内調は威信に賭けて、この交渉を成功させたんだ」

 目の前にいる兵士たちは、何を言っても反応を見せない。眉一つ動かさない。
 だが極論すれば、目の前の兵士たちは脳味噌を抜き取られた肉の人形である。久瀬を生かすか殺すかを判断するのは司令部であり、彼ら現場の人間ではない。必要以上に怯える理由はどこにもないのだ。

 つまり、文民統制――シビリアン・コントロール。

 司令部と言えば聞こえはいいが、机上で空論を戦わせる一部のインテリが現場にいる兵の生殺与奪を握っていることになる。一見不条理だが、安易に発砲された一発の銃弾が守るべき国そのものを脅かした例は歴史上枚挙に暇がない。そして、筋金入りの職業軍人ほどこのシステムの重要性を理解している。命令には絶対服従、たとえ己の命が危険に晒される状況下でも勝手な判断では動かないのである。

 これを、どこかで聞いた話だと思わないだろうか。

 役人は腰が重い、言われたことしかやらない――。
 時に民間から揶揄される言葉は、実は軍隊にもそのまま当てはまるのだ。命令は絶対だという軍人たちの鉄則の正体は、軍隊が行政機関の一つであるという本質を別の言葉で言い表しているに過ぎないのだ。

 敵が攻めてきたという「前提」があるから軍隊は出動でき、敵を攻撃せよと「命令」ができる。前提と命令の二つは必ずセットだ。もし敵の目的が侵攻ではなく亡命だとわかれば、あるいは敵意の有無をはかりかねるUFOや怪獣なら、現場の軍人は必ず司令部に報告し判断を仰ぐことになる。「前提」が揺らいだ状況で勝手に「命令」を実行することは許されない。まさに軍人も「言われたことしかやらないし、できない」のである。

 ここに、久瀬の狙いがある。

 戦闘ヘリや特殊部隊が出動した前提とは、日本政府と情報調査室がみつきたち三人を管理できていない、その能力がないと考えられる大失態をやらかしたこと。それに対し下された命令は、極過型の超能力者たちを力ずくでも手に入れること。
 なら、こちらは何一つミスを犯していないと思わせた上で、みつきたち三人が政府の意志へ完全に従うとすれば――他国へ三人を譲渡する予定だったと思い込ませられれば。

「はっきり言わせてもらう。今夜展開された作戦はまったく不必要。金と人員の無駄遣い。お前たちはな、いずれ自分のものになるプレゼントを拳銃で脅して取り上げようとしただけなんだ。見ろ、その証拠に、日向みつきも昭月綾も今は微動だにしていない。少しでもいい条件で他の情報機関の管理下へ移してくれることを期待して、俺の交渉を待ってくれているんだよ」

 久瀬の言葉通りなら、ここに集まった全員がひたすら無駄な汗を流し、大怪我を負い、同盟国である日本を敵に回しかねない傍若無人の限りを尽くしてしまったことになる。とんでもない大失態だ。

 その上で久瀬は、敵の仲間割れを誘う言葉を吐く。

「とは言え、彼女らの要求なんてささやかなものだ。平穏な日常をある程度保証してくれればいいらしい。昔のように監獄同然の生活でなければ、とな。……で、彼女らが欲しいと思っているのは、どこの国のどの機関だ? おそらく、より良い条件を出してくれた方に彼女らは協力してくれると思うが?」

 それでも、司令部を構成するのは生身の人間だ。人間には意地がある。一度振り上げた拳を黙って下ろすことは難しい。何もかも間違いだったと言われて素直に納得できるはずがない。それに今は、やろうと思えば何もかも力任せに解決できる圧倒的に有利な状況を作り出しているのだから。
 真偽の怪しい言葉に踊らされるな、今すぐ排除し超能力者らの捕獲を実行すべきだ。そういう判断が下っても何ら不思議はない。

 けれど久瀬は、決してそうはさせない魔法の言葉を知っていた。

「そもそも、今夜のこの作戦を企画立案したのは誰だ? 実行に当たっての責任者は? 俺の言葉が何もかも本当だった場合、俺たち内調と日本政府は今後数十年、下手をしたら半世紀は本件の傍若無人を記憶し続けるぞ。作戦に関わった諸官の首が飛ぶ程度では済まない話だが、そいつらはちゃんと『責任を取れるんだろうな?』」

 責任を取る――。
 無思慮な愚者にとっては何ということはない一言だが、そうでない者にとっては、心臓を鷲掴みにされる魔法の言葉になる。

 もちろん、日本ごとき極東の島国など恐れるに足らない、情報調査室など無能なウサギ小屋だと相手が心底思っているのなら、これは言うだけ虚しい。
 しかし、それは無い。絶対に。

 連中は久瀬を捕虜として確保し、取り引きに使おうとした。さらに先刻、勝手な行動を起こそうとした久瀬を狙撃せずに足元へ牽制の銃弾を撃ち込むに留めた。日本政府と情報調査室を完全に見下しているなら、あの時に撃ち殺しているはずだ。
 みつきたち三人ほどでないとしても、久瀬の命はやはり重いのだ。正確には、内閣情報調査室・特定業務総括班に所属する事務官、という肩書きの重さだ。
 さらに瑤子の言葉を信じるなら、いくつかの情報機関は日本政府に肩入れしているはずだ。多国籍軍だの連立だの、早い話が目的に対してかりそめの結束をした寄り合い所帯なのだから、彼らに迷いを生じさせる一言は必ず価値がある。

「俺の発言が信じられないというなら、今すぐ日本政府なり内調なりに確認を取れ。どういう回答が帰ってくるか、楽しみにしてくれていいぞ」

 もしも本当に、久瀬の言葉通りに日本政府へ連絡が行けばどうなるか。

 久瀬の考えでは、おそらく政府も情報調査室も久瀬がこんな目に遭っているなどと想像もしていないはずだった。
 中央官庁の日常がどういうものか知っていれば、そして情報調査室の実態を見ていれば、過剰な期待など抱くだけ虚しい。これは一体どういう事だと中央官庁の各所でおおわらわ。事実確認を急げと上と下への大騒動。当然ながらその間、返答は保留される。

 しかし、それでも充分なのだ。

 一旦政府の回答を求めた以上、敵はその返答があるまで迂闊には動けない。少なくとも日が昇るまで時間が稼げる。朝が来れば、何も知らない民間人すら東京湾岸全域からこの場の状況を視認できるから、目立ちすぎるアパッチ五機は真っ先に撤退させざるを得ない。みつきを物理的に押さえ込む重しが取り除ける。
 もちろん、久瀬の想像を超える切れ者が政府の内部に揃っているとしたら、これは願ったり叶ったりだ。尻の青い若手官僚の意図などは汲み取ってくれるだろうし、平気な顔をして「政府は全て了承している、この常軌を逸した騒ぎは大変遺憾である」などと嘘八百の回答をしてくれるだろう。

 だから、この作戦を何とか完遂させたいという勢力は、絶対に日本政府へ連絡を取ろうとしない。全てをうやむやにできる可能性がある今のうちに自分たちを押さえようとする。
 しかしそれは、作戦に間違いがあってはならない、できれば日本を敵に回したくないという勢力にとって、決定的な不信感を生む行動として映ることになる。

 ――そう。

 連中が久瀬の言葉に耳を傾けた時点で、既にこれは、顔の見えない敵司令部の役人たちと、久瀬の胆力勝負になっているのだ。
 戦闘ヘリも、特殊部隊も、超能力も全く関係ない。
 人間同士の、裸の勝負。

「どうなんだっ!! これでなお、このクソッタレで傍若無人な筋違いの作戦を継続する覚悟があるのかないのか、それを聞いてるんだッ!!」

 久瀬の大喝に、周囲が一瞬ざわめく。

 無表情だった兵士たちの様子が、あきらかに変わり始めていた。

 具体的な回答は何もなかったが、久瀬は先んじて行動を起こした。壁になっている特殊部隊の連中を押し退け、瑤子を担いでいる大男へ手を伸ばす。彼は拒むような姿勢を見せたものの、久瀬に対して強く出ることができず――具体的な命令を即座に出せなくなるような混乱が始まっているのだ――瑤子の身体は久瀬の腕の中へと移されることになった。

「大地、大丈夫か。怪我はないか」

 話しかけるが、拘束された瑤子は不信感に満ちた顔を久瀬に向ける。当然だろう。今まで彼が繰り広げてきた話は、全く身に憶えがないのだから。

「心配するな。内調は味方だって言ったのは君らの方だぞ。俺はそこの事務官で、君らに個人的な借りもある。信じてくれていい」

 久瀬は、精一杯優しく笑ったつもりだった。

 しかし、瑤子は今夜出会ったばかりの彼をどうしても信じられない。

 慌てて首を巡らせて、遠くにいる綾とみつきの方を見る。

 綾は、一体何が起きているのかと不安そうな顔でこちらを見つめている。久瀬の話そのものはヘリの騒音や下降気流に邪魔されて聞こえていないだろうし、彼女のESPには、ほとんど根も葉もないハッタリを丁半博打同然の気分でまくし立てているようにしか感じられていないはずだ。

 しかし、みつきは。

 いつからか上体を起こして地面に座り、久瀬に着せられた背広の上着を握りしめてこちらを見つめている。何かを信じて待つ強い目の光がある。
 自分たちを他国へ売り渡す算段をする、そういう男の背に向ける顔では、なかった。

 そして、久瀬がもう一度、繰り返す。

「……信じてくれていい」

 その顔に、彼へ視線を注ぐみつきの顔が重なる。

 瑤子の顔から、険が取れた。

「よし。今、自由にしてやるからな」

 久瀬は、瑤子を拘束するベルトに手をかける。

 が、その手をいきなり押さえ込んできた者がいた。
 サイクルウェア姿の男――ESP能力者。

「な……うわッ!」

 そのESP能力者は久瀬を突き飛ばす。
 仲間も駆けつけてきて、久瀬を押さえ込んで瑤子の身柄を再び確保しようとする。

(……ロシア語訛りの英語、か?)

 したたかに打ち付けた身体の痛みに顔をしかめながら、ESP能力者たちの言葉に耳を傾ける。正直ほとんど聞き取れなかったのだが、要するに、久瀬の感情の動きは不可解で嘘を言っている可能性が高く、みつきも綾も瑤子も本心から従う気があるとはとても思えない、作戦は続行すべきだ、ということのようだ。
 しかし久瀬は微塵も慌てない。同じESP能力者である綾の凄さは嫌というほど目にしてきている。自分の嘘がばれることは予想していたのだ。

「下がれ、この馬鹿どもがっ!」

 立ち上がって、ESP能力者たちを怒鳴りつける。

 ここからが総仕上げ。みつきが言ったわずかな時間を稼ぐために、ESP能力者たちを利用してみせる。
 自分の嘘を心底、信じ込ませるために。

「三人には敵意があって当たり前だ! お前らが今まで何をやってきたと思ってる! 問答無用で銃口を向けて死ぬか奴隷になるか選べって、そんな連中にニコニコできるわけがあるかっ! 俺だってそれほど場数を踏んできたわけじゃない! はっきり言えば今だって責任の重さにチビりそうだよ! それくらい超能力がなくなって察しはつくだろ!」

 そして、自分を突き飛ばしたESP能力者の胸元を、指で突く。

「だいたいお前、超能力だの感情の動きだの抜かしてたが、その力、どこまで信用できるんだ? 精度は。再現性は。どうなんだ。言ってみろよ。俺が嘘八百を言ってるっていう『客観的な証拠』があるんだろうな!」

 みつきだって、生まれて初めて空を飛んだときは驚いたと言う。綾でさえ時には勘違いやミスをする。半世紀以上にわたる研究の末、幼い頃から徹底的に訓練を受けてきたに違いない最強の超能力者たる彼女らですらそれなのだ。

 超能力者も、生身の人間に過ぎないという証しである。

 人間はときに、目の前で起きたことすら簡単には信じられない。絶対に間違いないという内的確信があっても、周囲から「それは違う」と言われ続ければ己を疑い始める。ましてESPは、どれほど正確であっても内的で主観的な感覚に違いなく、正しいかどうかは結果を見るまでわかりはしない。

 しかし、ESP能力者たちは久瀬の前から退こうとしない。
 それだけ己の感覚に自信と誇りがあるのだろう。

「……OK、わかった。なら、試してみればいい」

 久瀬は両手を挙げ、一歩下がる。

「君らの手で大地瑤子を自由にしてみろ。やりかたはお好きに。彼女が暴れた途端に押さえ込むなり殺すなり、充分な準備もしてな。だが、俺が側にいる限り、彼女は何もしないぞ。絶対に」

 約一分、間が空いた。
 久瀬にとっては一時間にも思える長い間だった。

 そしてついに、連中は久瀬の言うとおり、周囲をぐるりと八人の超感覚能力者に取り囲ませた上で、瑤子の拘束を一つずつ解き始めたのだ。

「大地、怯えなくていい。今度の件は、政府と内調、それと諸外国の間で勘違いがあった結果なんだ。誰も危害を加えたりしないから」

 喋りすぎかと久瀬は思うが、自由になった途端、瑤子が短慮に暴れ出す可能性も否定できない。ベルトが外されている間、気が気ではなかったのだ。

 けれど杞憂だった。
 拘束を解かれても、瑤子はただじっと立ち尽くすのみ。

 しかも、猿轡に似た口元の器具を外された第一声が、

「ここに集まってきたのって、どこの国の人ですか? どうせ日本にいられないなら、こういう酷い真似に反対してくれる人のところに行きたいです」

 これだった。見事に久瀬と口裏を合わせてくれた。
 瑤子も普通の女子中学生ではない。このくらいの機転は利かせてみせる。

「君の気持ちは痛いほどわかるつもりだ。本当にすまない。今後も尽力する」

 内心では盛大に安堵の息を吐きながら、久瀬は瑤子の側に近付いて、屈み込む。

「怪我はないのか?」
「あちこち殴られたり蹴られたりしました」
「……ひどいな」
「ただ、あたしも何人か叩いたり蹴ったりしましたけど。でも、そのくらい許してほしいです。こっちは突然襲われて、内調のお兄さんだって殺されそうになったし。一生懸命抵抗してあたりまえですよね?」
「そうだな。……そう思うよ、俺も」

 その会話は、誰にも邪魔をされなかった。周囲の連中は戸惑い気味に見ているだけだ。無理もない。超能力者のESPよりも久瀬のハッタリの方が本当だと信じられる状況になってしまったのだから。

「これでわかったろう。これ以上騒ぎを大きくしたら困るのはおまえらの方だってな。早く撤退しろ。どこの国のどの組織に彼女らを預けるかは、後日に協議の席を設けてもいい。そこで決めよう」

 しかし、連中はそこまで久瀬の言うことに従いはしない。久瀬の言っていることが嘘かもしれない、という疑いは拭いきれないのだから。

「OK、わかった、ならこちらも譲ろう。この包囲は解かなくていい。俺たちが何かおかしな真似をしたら即座に攻撃できるように。ただ、大地瑤子が無事なことを日向みつきに確認させてやってくれ。本当に心配しているんでな。それから、昭月綾の拘束も解いてやりたいんだが。手の皮膚が手枷の金属に負けて血が滲んでたぞ。あれじゃ可哀想だ」

 しかし、そう言ってもまだ、周囲の兵士たちは明確な反応を示さない。
 ここで久瀬は、官僚だからこそ言える、二つ目の『魔法の言葉』を口にする。

「わかったよ、『そちらのメンツを潰す訳にはいかない』よな。さっきの要求を呑んでくれるなら、俺たち全員は改めて君らに投降しよう。それで、この作戦は無駄じゃなかったことになる。関係各所へ言い訳もできるはずだ。あとは好きにすればいい」

 周囲の兵士たちは、明確な反応を示さなかった。

 しかし、久瀬は焦らない。

 やるだけのことはした。これ以上はもう無理だ。顔には出していないが、重ねに重ねた思考と度重なる緊張に疲弊した頭は重く澱み、できることなら今すぐこの場に座り込みたかった。人事を尽くして天命を待つ、という意識すらない。
 ただ、向こうの動きを待ち続ける。

 ――唐突に、兵士たちが動き始めた。

 ESP能力者らが、一歩、二歩と下がる。
 みつきと綾の待つ場所へ道が開けていく。

 久瀬は、勝ったのだ。

「……さ、大地。行こうか」

 心の中で快哉を叫びながら、久瀬は瑤子の背を押しつつ歩き出す。
 視界の隅で何かが動いていたのが気になってそちらを向くと、包囲網を形成する一部の部隊が何か言い争いを始めている。そして、それをなだめようとしている別の部隊も。

(思惑の違う一部の国が、この判断を承伏しかねてるってところかな……)

 お互いに宮仕えは大変だな、と、広義で同じ役人と言える連中に少し同情する。

「あ……いかん、忘れてた」

 包囲網を離れ、周囲に兵士がいなくなったあたりで、久瀬は唐突に振り返る。瑤子をその場に置いて特殊部隊員の集まる中へ戻っていく。

「昭月の手枷を解く道具を貸してくれ。……無いのか? しょうがないな。日向みつきのサイコキネシスで引きちぎらせるぞ。抵抗の意思ありとか勘違いするなよ?」

 言うと、特殊部隊の一人がしぶしぶ頷いた。それを確認して、久瀬は瑤子の元へ戻る。
 精神的に疲れ切って細かいことを考えられなかっただけだが、その図太い態度から〝こちらを騙そうとしているとは考えづらい〟という信頼が敵司令部に生まれていたなどと、久瀬には知る由もなかった。

 そうして。

 アパッチの取り囲む空間の中心に、瑤子を連れた久瀬が凱旋する。
 瑤子が駆け寄ると、みつきはすぐに立ち上がり、その小さな身体をしっかと抱き留めて。

「良かった……瑤子、無事で良かった……」
「ひなたセンパイも……良かった、良かったです!」

 そして、全く信じられないといった面持ちの綾が久瀬を見つめる。

「あなた、どんな魔法を使ったの……?」
「超能力者に魔法使い扱いされるとは、光栄だ」

 首を傾げるばかりの綾に、瑤子の頭を撫でているみつき満面の笑みを向ける。勝ち誇ったように。

「なあに? みつき。その顔」
「ふふーん。あんたは知らないでしょうけどね、久瀬さんは凄い人なのよ!」
「何よ、それ……」
「ねー、久瀬さん。あはははははっ」

 しかし、久瀬は首を振る。

「脳天気には喜べないんだよ、日向。こいつはダメモトの賭けでしかなかったし、そもそも論破に成功したのは俺の力じゃない。俺の肩書きが……日本政府と内調が、策謀渦巻く裏の世界で本当に評価されてる証拠だ。でなきゃ通じないハッタリなんだ。驚いてるのは俺も同じさ……」

 言う間、みつきは綾に促されて手枷を破壊する。
 これで本当に、久瀬は目的を達したことになった。

「しかし、責任を取りたがらない上に面子を重んじる役人の体質は、こんなところでも出てくるものなんだな……。反面教師として心に刻んでおこう……」
「でも、いいんでしょうか。今はみんな、お兄さんが政府の代表って信じてるのに」

 瑤子が、みつきの胸から不安げに顔を上げる。
 が、久瀬はは笑って受け流した。

「そこは心配するところじゃないな。連中が問答無用で俺を殺そうとしたとき、君らは、俺が内調の人間というだけで危険を顧みず守ってくれた。君らが政府と内調を信頼している証拠だよ。なら、その逆も成立すると考えるのが自然だ。政府と内調は君らを守るため全力を尽くすべきで、それはどんな時でも堅持すべき基本方針だ、とね」
「そこまで、よくも考えて……」
「自分の判断と行動に責任を持つって、そういうことだからな」

 さらりと、久瀬は言い切った。

「だいたい、俺や君らが今までどんな目に遭わされたと思ってる。生き延びたければ君らに賭けるしかない。そんな切羽詰まったギリギリの判断を後で責めるような政府で働くなんて願い下げだ。テロリストになるかカルトに入信したほうがずっとマシだよ」

 これに、三人がクスッと笑う。

「何にせよ、俺が出来るのはここまでだ」

 緊張でひどく凝った首をこきりと鳴らして、久瀬が言う。

「後は任せるしかないが……向こうの戦力は減ってないぞ。本当に何とかなるのか?」
「愚問よ」

 綾が、不敵に笑う。

「全員、叩き潰してみせるわ。完膚無きまでにね」

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