生家と俺と謎の馬小屋
僕は四国の片田舎の生まれで、両親は国道沿いで飲食業(うどん屋)を営んでいたが、同居の祖父母は米農家だった。
この辺りの解像度を上げていくと、たとえば「父親が入り婿だった」とか「母親は家業の米農家だけは死んでも継ぎたくなかった」とか「父親と祖父がまともに話している姿を見た記憶がない」とかで際限なく話が広がってしまうので目いっぱい端折るが、とりあえず生家は築半世紀を軽く超える古い木造の平屋建てで、窓はアルミサッシなどに置き換わっていたものの、梁も屋根も壁も大正から昭和初期の農家そのものだったという情報だけ押さえていてくれればいい。
両親と幼い頃の僕は広い母屋に、祖父母は離れに住んでいた。
離れといっても、屋根は母屋と一続き。玄関が二つあるだけだ。今風に言えば二世帯住宅ということになるが、なにせ建てられた時代が時代である。最初から二世帯の同居を見据えて設計したはずもない。本来は別の用途に使われていた空間があって、そこがたまたま空いていたから、両親の結婚を期に祖父母が住まう離れをムリヤリ気味にこしらえたという感じだったはずだ。今にして思えばね。
今思うと────そう、今思うと、だ。
当初は、何も疑問に思わなかった。
幼い自分にとって「その家」が「当たり前」だったということもあるが、僕が生まれた頃にはもうとっくに、田畑は機械で耕すものになっていた。だから、物心つくまで気付かなかったのだ。
母屋と離れの間にある、薄暗くて饐えたような独特の臭いのする空間の正体。柵のような、檻のような、でも何かを閉じ込めるにはまるで向いていない、あまりに隙間が大きくガバガバな構造物。そして、不要な木材や什器と一緒くたに仕舞い込まれたまま朽ち果てようとしている、やたらと大きい金属製の「何か」の用途にも。
あれは何歳頃のことだったろう。
何の気なしに訊ねた僕に、祖母が答えてくれたのだ。
「昔ね、うちでお馬さんを飼いよったんよ」
昔は機械なんてなかったから、どこの農家も牛か馬を飼っているのが当たり前だった。そして田んぼや畑の仕事を手伝ってもらっていたのだと。
祖父母が住んでいる離れの脇には、ここに馬小屋があった名残が残っていたのだ。そして、その馬が牽いていた馬鍬らしきものだけが、今も残っているという────
「マジか」
幼かった僕は、馬小屋の名残を見て思った。
馬、でけえ。
周囲の構造物からそこに収まるもののサイズを想像できる程度には賢かったらしい。それとも、その頃すでに動物園などで馬の実物を見たことがあったのかも。だがまさか、それが自分の家に居たとは。その大きさと存在感を感じられるモノがこんな近くにあったとは!
祖父母の住む離れの隣。謎の空間。今までずっと暗くて汚くてなんか怖いと思っていた場所。それが急に輝いて見え始めた瞬間だった。
もうちょっと早く生まれていたら、自分は馬と一緒に暮らしていたのかもしれない。その背中に乗れたかもしれない。近所を練り歩いたり走り回ったりできたのかもしれない────ああ、なぜそうならなかった!
「ところで、その馬、どうしたの? だって、耕運機を買ったらいらなくなったんだよね? 死ぬまで飼ってたの? それとも食べたの?」
その問いに、祖母がなんと答えたのだったか。
苦笑いしながら「昔のことやけん、よう憶えとらんねぇ……」なんて感じで、適当にはぐらかされたような気がする。
○
それが、永元千尋にとっての「馬」の原体験。
からっぽの馬小屋と、残された農具類。その向こうにぼんやりと揺らめいていた、日常に馬がいる生活の幻である。
2023/08/19
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