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かくて救世への道を往く(2)

男の意地を貫いて


 日は沈み、夜の帳が街に降りる。
 午後六時。一応の退庁時刻である。

「今日も、何もせずに終わるのか……」

 久瀬は暗澹たる思いで鞄を手にして、席を立つ。
 天井の蛍光灯を消して廊下へ出た。

 驚くべきことに、情報調査室の薄暗い廊下に並ぶ扉のほとんどがすでに施錠されていた。
 開かれている部や班も天井の明かりが落とされていて、闇の中でぽつぽつとデスクライトの点いた机が散見できるのみ。それすらも空席が多く、かろうじて管理職らしき職員の姿を見つけても、ラジオのナイター中継を聴きつつ居眠り中という有様だった。

「常会の会期中だぞ……。他は徹夜覚悟で……」

 だが、この光景にさほど驚きも怒りも感じていない自分がいた。
 この状況に慣れてきているのだ。

「……冗談じゃ、ない」

 呟きつつ、けれど何をするでもなく、久瀬は無表情で階段を下りる。
 その途中、血相を変えて階段を駆け上がってきた中年の職員と肩がぶつかった。

「あ、すみません」

 と、久瀬が言うより先に。

「気をつけろ馬鹿っ! このクソ忙しいのにダラダラ歩きやがって!」

 その職員は大声で言い、そのまま走り去った。
 ただの八つ当たりだ。徹夜続きで神経がささくれ立っているにしても言葉が過ぎる。

 が、これが久瀬にとって最後の一押しになった。

 唇を噛み、踵を返す。早足で特務分室へ戻る。勢いで天井の蛍光灯をつけ忘れた。暗い中を手探りし、山形参事官の机からデスクライトを奪い取る。久瀬にはその程度の備品も回されていないのだ。

「誰が、誰がっ……これ以上、こんなっ……」

 小さな灯りの中で胸元の万年筆を手にし、備品の便箋を広げる。
 唇を噛み締め、憤怒の表情で握ったペンが紡いだ文字は[退職願]だ。

「辞めてやる、辞めてやるさ、未練なんかあるものかっ、何もかも知ったことかッ!!」

 久瀬は[一身上の都合により]から始まる短い定型文をしたためて署名捺印、封筒に詰め込んだ。
 まだ夜は更けていない。いくら何でも情報調査室の責任者である内閣情報官はオフィスに詰めているだろう。そこに行けば全ては終わる。アポを取るべく内線電話の受話器を取り上げた。

 しかし、そこで手が止まる。

 そのまま五秒が経ち、十秒、そして、一分。

「何だよ……何を躊躇ってるんだ」

 結局のところ、これは衝動的な辞職だ。財政難を理由に公務員の給料が下がり続けている中、貯金の額など雀の涙。再就職に手間取れば三度の食事にすら困る状況に陥るかもしれない。なら、たとえ給料泥棒と揶揄されようが、組織にしがみついていた方が身のためではないか。
 いざ提出という段で迷う自分を情けないとは思うのだが、こればかりはもう少し時間が欲しかった。

「後悔は、したくない……」

 久瀬に残された、最後の意地である。
 受話器を置いて席を立ち、特務分室を出て、手洗いで顔を洗う。地下の売店に足を延ばし、何年か前に辞めた煙草を自販機から買って喫煙室に向かう。けれど、そこには多忙な同僚たちが一服の憩いを求めてたむろしていて、どうにも近寄れず背を向けた。買ったばかりの煙草もくず入れに放り込む。

「何をやってるんだ、俺は……」

 気分を変えるつもりだったのに、前よりも鬱々としただけだった。とりあえず今夜は帰ろうかと特務分室へ戻り、机の脇にある鞄に再び手を伸ばす。

 そして、その手がまた、止まった。

 今夜帰って、明日どうするのか。無為な時間を過ごす中で逡巡を繰り返し、再び退職を考え始めることは目に見えている。そのうちに班も解体されて辞職を勧められるかもしれない。これを受け入れれば結局は同じこと、断ったら「自分は給料泥棒になりたいです」と周囲に宣言するようなものである。

「どうせ、もう……未来は、ないんだ……」

 そして再び、内線電話の受話器を取り上げる。諦観が迷いを消してくれた。
 ボタンを押す。数度続くコール音の後、応答。

「情報官、少しお時間を。……お願いします」

 アポは取れた。取ってしまった。
 あとは机の上に置いていた退職願を、持って──。

「ん?」

 久瀬はようやく、部屋に起きていた異変に気付く。
 机上に、見覚えのない紙の束が山と積まれているのだ。どうやらファックス用紙らしい。

「な、何だ、誰が来たんだ?」

 慌ててファックス用紙をどけ、その下になっていた自分の封筒を取り上げる。幸いにも封筒は裏返しで、表面に記した退職願の文字は隠れたままだった。安堵の息を吐く。

「しかし、誰が持ってきたんだ、これ……」

 ファックス用紙を確かめてみる。特定業務総括班に宛てたものであることは間違いなさそうだが、発信者は個人名ばかりで、しかも「連絡を請う」とか「対応を願う」などと短く書かれているのみだ。

 訳がわからず、小首を傾げる。
 と、分室内にドアをノックする音が響く。

「あ……はい、どうぞ」

 退職願を慌てて取り上げ懐に押し込み、返事をする。
 扉が開いて背広姿の男が入ってきた。
 年齢的には山形参事官と同じくらいだろうか、見覚えのない顔だ。胸元のIDを見る限り警察庁の事務官らしい。脇に分厚いファイルを抱えている。

「いやいや、助かったよ。官邸に用があってそこの前を通りかかったら灯りがついてるのが見えてな。山形君も戻ってるなら連絡を……おや?」

 久瀬とその事務官の目が、初めて合った。

「見ない顔だな、君は?」
「一応、ここの事務官で……。久瀬と言います」
「おかしいな、新人が入ったって話は聞いたが、そいつはたしか……あ、そうか」
「? あの……」
「皆まで言うな、わかってるよ。俺も似たようなもんだからな。ところで山形君は?」

 クビにされる瀬戸際で長い間出勤もしていない、とはなかなか言えない。

「……参事官は、今、席を外していて」
「飯野ビルに飯でも食いに行ったのか。まあいい」

 その事務官は、久瀬に分厚いファイルを手渡す。

「山形君に渡してくれ。概要だけでも説明すべきだろうが、見ればわかるはずだから」
「え、いや、その……でも」
「こっちも忙しいんだよ、一分一秒が惜しいんだ。わかるだろ? じゃ、後はよろしく」

 その事務官は笑顔と共に背を向け、特務分室を出て行った。
 いつも通りの静寂が戻ってくる。

「よろしくって言われてもな……」

 愚痴りつつ受け取ったファイルを自分の机の上に置いたが、すぐに思い直し、上司である山形参事官の机の上に移動させる。

「俺にはもう、関係ない。ほっとこう……」

 懐に入れた退職願が、そんな台詞を吐かせた。
 だがその直後、またしてもノックの音がする。入ってきたのはやはり背広姿の事務官だ。

「失礼致します。山形参事官はどちらに?」
「今は席を……。あの、そちらは」
「失礼しました、私は防衛庁防衛局の……」
「……防衛庁?」
「はい。山形参事官がお戻りになりましたら、この資料をお渡し下さい。よろしくお願い致します」

 また先刻と同じようなことを言われてしまった。
 さらに、それからほんの四、五分ほどの間に。

「今晩は。都の知事本局なんですが」
「はい、自分は海上保安庁の事務方で」
「外務省から来た文書だと伝えてくれればいい」
「ご苦労様、国土交通省の総合政策局です」
「私の所属ですか? 公安調査庁の総務部です」

 入れ替わり立ち替わり、今までの寂れようが嘘のように人が訪れてきた。
 結果、百科事典数冊分はあろうかという分厚い書類の束が積み上がってしまう。

「こ、これ……。本当に、ほっといても……」

 そういう気持ちになって、初めて気付いた。
 全ての書類に〝機密〟と〝至急〟の赤い判、あるいはその旨の注意書きが記されているのである。

 機密の判は、久瀬も見慣れている。たいていは作成中の原稿資料や内部の回覧など「関係各所以外には出さないように」という意味合いで押されるものなのだ。部外流出と紛失に気をつければいいのだし、これは極論、仕事上の書類全てに言えることだ。

 ただ、問題なのは、至急の判だ。

 この判が押された書類は即時対応が原則である。久瀬が過去に所属していた防災担当部局では、仕事の遅延が全国民一億数千万人の生命財産を脅かす場合も有り得るのだ。

「……いや、特務分室に回ってくる文書だぞ。確認の判を押せばそれで終わりだろ……」

 思い直し、久瀬は書類の束に背を向ける。

 もし後日とんでもない重大事になったとしても、ここでの仕事を何一つ教わっていない久瀬の責任問題になることは有り得ない。山形参事官のクビは確実に飛ぶだろうが、そんなことはどうでもいい。そもそも自分は、官僚を辞めると決意した身なのだ。
 放っておけばいい。自分には、何も関係ない。

 しかし。

 背を向けたまま、久瀬の足は動かない。
 そして振り返る。無言で。真剣な目で。

 ――可能性としては、有り得るのだ。

 この書類の動きが遅延することで、見知らぬ誰かの一生を左右するかもしれない。多くの人命が失われるかもしれない。日本を危機に陥れる重大事になるかもしれない。

 そんな例は枚挙に暇がない。金融不祥事の隠蔽、薬害エイズ、道路公団の談合事件。中央官庁に端を発し世を揺るがせた諸問題は、日常業務に追われた官僚たちの精神的な疲弊や感覚の麻痺、あるいは怠惰から始まったのだ。久瀬も新人時代から上司や先輩たちに幾度となく言われてきた。国民が俺たちを嫌うのは仕方ない、それだけのことをしてきたのだ、頭を垂れて黙々と働き続けて信頼を取り戻すしかないのだと。そして話は決まってこう続く。いつもの仕事と思うな、くだらない仕事と思うな、この霞ヶ関は国と一億数千万の命を背負っている、手を抜けることなど何一つないと肝に銘じておけ。

 この書類を放っておいていいのか。いいわけがない。
 そもそも自分は、ずっと仕事がしたかったはずだ。
 今、その仕事が目の前にあるのだ。

 久瀬は一番上にあった防衛庁の封筒を手に取り、開ける。

「……? 何だ、これ」

 中から出てきたのは空撮写真。タイムスタンプは今日の早朝。どこかのオフィス街だろうか、道路の一部がクレーターのようにほぼ円形を描いて陥没していて、周囲には自動車らしい鉄屑の山がある。

「これ、丸の内? 八重洲か? まさか昨夜の地震って、隕石……いや、考え過ぎか」

 これにCD-Rが同梱されている。文書類はここに収められているのだろう。分室備え付けのパソコンを立ち上げて放り込んでみる。

「読み込みエラーだと? このポンコツがっ」

 試しに、いつも持ち歩いている私物のモバイルPCを取り出し、コンボドライブに放り込んでみた。 

「認識しない? おかしいな、そんなはず……」

 あれこれ試してみたが、どうやっても読み込めない。Rを焼く際にエラーでも起きたのだろうか。
 続けて警察庁からのファイルを開く。こちらもほとんど写真ばかりだが、どこか見覚えがある。

「そうだ。昨日のニュース。芝浦埠頭の傷害事件」

 つまり警察の捜査資料であるらしい。関連性はわからないが、オービスが撮影したらしき画像もある。車種は旧型のワーゲンだろうか。どこのレーサー気取りがやらかしたのか、ドリフトを決めた車体はナンバープレートが識別できない絶妙の角度に傾いていて、タイヤがもうもうと白煙を上げていた。
 他にも、松永泰紀、松永恵、須賀健一郎といった見も知らぬ未成年者らの詳細な写真付きプロフィールや、どこかの海岸に打ち上げられた漁船の様子などがあったが、それらの関連性など久瀬に読み解けるものではない。完全に理解不能。

「……やれやれ」

 手当たり次第に広げた写真やファイルを見下ろして、久瀬は腕を組み、途方に暮れた。

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本作は2003年に企画・発案、2004年に小説誌で発表、2006年にノベルスとして商業出版されたものです。 2011年に発生した東日本大震災とは何ら関係がなく、登場人物の発言や行動は00年代初旬の社会的背景を強く反映しています。特に作品のバックボーンとなる中央官庁の描写については、当時取材した内容や入手できた資料に依るところが大きく、現在ではフィクションとしても許容が難しい描写も散見されます。ご注意ください。 .

日向みつきは18歳の予備校生。大きなお節介と小さな迷惑、そして世界規模の陰謀を抱えて、彼女は今夜も東京の空を飛ぶ!

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