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かくて救世への道を往く(2)

男の意地を貫いて


 日は沈み、夜の帳が街に降りる。
 午後六時。一応の退庁時刻である。

「今日も、何もせずに終わるのか……」

 久瀬は暗澹たる思いで鞄を手にして、席を立つ。
 天井の蛍光灯を消して廊下へ出た。

 驚くべきことに、情報調査室の薄暗い廊下に並ぶ扉のほとんどがすでに施錠されていた。
 開かれている部や班も天井の明かりが落とされていて、闇の中でぽつぽつとデスクライトの点いた机が散見できるのみ。それすらも空席が多く、かろうじて管理職らしき職員の姿を見つけても、ラジオのナイター中継を聴きつつ居眠り中という有様だった。

「常会の会期中だぞ……。他は徹夜覚悟で……」

 だが、この光景にさほど驚きも怒りも感じていない自分がいた。
 この状況に慣れてきているのだ。

「……冗談じゃ、ない」

 呟きつつ、けれど何をするでもなく、久瀬は無表情で階段を下りる。
 その途中、血相を変えて階段を駆け上がってきた中年の職員と肩がぶつかった。

「あ、すみません」

 と、久瀬が言うより先に。

「気をつけろ馬鹿っ! このクソ忙しいのにダラダラ歩きやがって!」

 その職員は大声で言い、そのまま走り去った。
 ただの八つ当たりだ。徹夜続きで神経がささくれ立っているにしても言葉が過ぎる。

 が、これが久瀬にとって最後の一押しになった。

 唇を噛み、踵を返す。早足で特務分室へ戻る。勢いで天井の蛍光灯をつけ忘れた。暗い中を手探りし、山形参事官の机からデスクライトを奪い取る。久瀬にはその程度の備品も回されていないのだ。

「誰が、誰がっ……これ以上、こんなっ……」

 小さな灯りの中で胸元の万年筆を手にし、備品の便箋を広げる。
 唇を噛み締め、憤怒の表情で握ったペンが紡いだ文字は[退職願]だ。

「辞めてやる、辞めてやるさ、未練なんかあるものかっ、何もかも知ったことかッ!!」

 久瀬は[一身上の都合により]から始まる短い定型文をしたためて署名捺印、封筒に詰め込んだ。
 まだ夜は更けていない。いくら何でも情報調査室の責任者である内閣情報官はオフィスに詰めているだろう。そこに行けば全ては終わる。アポを取るべく内線電話の受話器を取り上げた。

 しかし、そこで手が止まる。

 そのまま五秒が経ち、十秒、そして、一分。

「何だよ……何を躊躇ってるんだ」

 結局のところ、これは衝動的な辞職だ。財政難を理由に公務員の給料が下がり続けている中、貯金の額など雀の涙。再就職に手間取れば三度の食事にすら困る状況に陥るかもしれない。なら、たとえ給料泥棒と揶揄されようが、組織にしがみついていた方が身のためではないか。
 いざ提出という段で迷う自分を情けないとは思うのだが、こればかりはもう少し時間が欲しかった。

「後悔は、したくない……」

 久瀬に残された、最後の意地である。
 受話器を置いて席を立ち、特務分室を出て、手洗いで顔を洗う。地下の売店に足を延ばし、何年か前に辞めた煙草を自販機から買って喫煙室に向かう。けれど、そこには多忙な同僚たちが一服の憩いを求めてたむろしていて、どうにも近寄れず背を向けた。買ったばかりの煙草もくず入れに放り込む。

「何をやってるんだ、俺は……」

 気分を変えるつもりだったのに、前よりも鬱々としただけだった。とりあえず今夜は帰ろうかと特務分室へ戻り、机の脇にある鞄に再び手を伸ばす。

 そして、その手がまた、止まった。

 今夜帰って、明日どうするのか。無為な時間を過ごす中で逡巡を繰り返し、再び退職を考え始めることは目に見えている。そのうちに班も解体されて辞職を勧められるかもしれない。これを受け入れれば結局は同じこと、断ったら「自分は給料泥棒になりたいです」と周囲に宣言するようなものである。

「どうせ、もう……未来は、ないんだ……」

 そして再び、内線電話の受話器を取り上げる。諦観が迷いを消してくれた。
 ボタンを押す。数度続くコール音の後、応答。

「情報官、少しお時間を。……お願いします」

 アポは取れた。取ってしまった。
 あとは机の上に置いていた退職願を、持って──。

「ん?」

 久瀬はようやく、部屋に起きていた異変に気付く。
 机上に、見覚えのない紙の束が山と積まれているのだ。どうやらファックス用紙らしい。

「な、何だ、誰が来たんだ?」

 慌ててファックス用紙をどけ、その下になっていた自分の封筒を取り上げる。幸いにも封筒は裏返しで、表面に記した退職願の文字は隠れたままだった。安堵の息を吐く。

「しかし、誰が持ってきたんだ、これ……」

 ファックス用紙を確かめてみる。特定業務総括班に宛てたものであることは間違いなさそうだが、発信者は個人名ばかりで、しかも「連絡を請う」とか「対応を願う」などと短く書かれているのみだ。

 訳がわからず、小首を傾げる。
 と、分室内にドアをノックする音が響く。

「あ……はい、どうぞ」

 退職願を慌てて取り上げ懐に押し込み、返事をする。
 扉が開いて背広姿の男が入ってきた。
 年齢的には山形参事官と同じくらいだろうか、見覚えのない顔だ。胸元のIDを見る限り警察庁の事務官らしい。脇に分厚いファイルを抱えている。

「いやいや、助かったよ。官邸に用があってそこの前を通りかかったら灯りがついてるのが見えてな。山形君も戻ってるなら連絡を……おや?」

 久瀬とその事務官の目が、初めて合った。

「見ない顔だな、君は?」
「一応、ここの事務官で……。久瀬と言います」
「おかしいな、新人が入ったって話は聞いたが、そいつはたしか……あ、そうか」
「? あの……」
「皆まで言うな、わかってるよ。俺も似たようなもんだからな。ところで山形君は?」

 クビにされる瀬戸際で長い間出勤もしていない、とはなかなか言えない。

「……参事官は、今、席を外していて」
「飯野ビルに飯でも食いに行ったのか。まあいい」

 その事務官は、久瀬に分厚いファイルを手渡す。

「山形君に渡してくれ。概要だけでも説明すべきだろうが、見ればわかるはずだから」
「え、いや、その……でも」
「こっちも忙しいんだよ、一分一秒が惜しいんだ。わかるだろ? じゃ、後はよろしく」

 その事務官は笑顔と共に背を向け、特務分室を出て行った。
 いつも通りの静寂が戻ってくる。

「よろしくって言われてもな……」

 愚痴りつつ受け取ったファイルを自分の机の上に置いたが、すぐに思い直し、上司である山形参事官の机の上に移動させる。

「俺にはもう、関係ない。ほっとこう……」

 懐に入れた退職願が、そんな台詞を吐かせた。
 だがその直後、またしてもノックの音がする。入ってきたのはやはり背広姿の事務官だ。

「失礼致します。山形参事官はどちらに?」
「今は席を……。あの、そちらは」
「失礼しました、私は防衛庁防衛局の……」
「……防衛庁?」
「はい。山形参事官がお戻りになりましたら、この資料をお渡し下さい。よろしくお願い致します」

 また先刻と同じようなことを言われてしまった。
 さらに、それからほんの四、五分ほどの間に。

「今晩は。都の知事本局なんですが」
「はい、自分は海上保安庁の事務方で」
「外務省から来た文書だと伝えてくれればいい」
「ご苦労様、国土交通省の総合政策局です」
「私の所属ですか? 公安調査庁の総務部です」

 入れ替わり立ち替わり、今までの寂れようが嘘のように人が訪れてきた。
 結果、百科事典数冊分はあろうかという分厚い書類の束が積み上がってしまう。

「こ、これ……。本当に、ほっといても……」

 そういう気持ちになって、初めて気付いた。
 全ての書類に〝機密〟と〝至急〟の赤い判、あるいはその旨の注意書きが記されているのである。

 機密の判は、久瀬も見慣れている。たいていは作成中の原稿資料や内部の回覧など「関係各所以外には出さないように」という意味合いで押されるものなのだ。部外流出と紛失に気をつければいいのだし、これは極論、仕事上の書類全てに言えることだ。

 ただ、問題なのは、至急の判だ。

 この判が押された書類は即時対応が原則である。久瀬が過去に所属していた防災担当部局では、仕事の遅延が全国民一億数千万人の生命財産を脅かす場合も有り得るのだ。

「……いや、特務分室に回ってくる文書だぞ。確認の判を押せばそれで終わりだろ……」

 思い直し、久瀬は書類の束に背を向ける。

 もし後日とんでもない重大事になったとしても、ここでの仕事を何一つ教わっていない久瀬の責任問題になることは有り得ない。山形参事官のクビは確実に飛ぶだろうが、そんなことはどうでもいい。そもそも自分は、官僚を辞めると決意した身なのだ。
 放っておけばいい。自分には、何も関係ない。

 しかし。

 背を向けたまま、久瀬の足は動かない。
 そして振り返る。無言で。真剣な目で。

 ――可能性としては、有り得るのだ。

 この書類の動きが遅延することで、見知らぬ誰かの一生を左右するかもしれない。多くの人命が失われるかもしれない。日本を危機に陥れる重大事になるかもしれない。

 そんな例は枚挙に暇がない。金融不祥事の隠蔽、薬害エイズ、道路公団の談合事件。中央官庁に端を発し世を揺るがせた諸問題は、日常業務に追われた官僚たちの精神的な疲弊や感覚の麻痺、あるいは怠惰から始まったのだ。久瀬も新人時代から上司や先輩たちに幾度となく言われてきた。国民が俺たちを嫌うのは仕方ない、それだけのことをしてきたのだ、頭を垂れて黙々と働き続けて信頼を取り戻すしかないのだと。そして話は決まってこう続く。いつもの仕事と思うな、くだらない仕事と思うな、この霞ヶ関は国と一億数千万の命を背負っている、手を抜けることなど何一つないと肝に銘じておけ。

 この書類を放っておいていいのか。いいわけがない。
 そもそも自分は、ずっと仕事がしたかったはずだ。
 今、その仕事が目の前にあるのだ。

 久瀬は一番上にあった防衛庁の封筒を手に取り、開ける。

「……? 何だ、これ」

 中から出てきたのは空撮写真。タイムスタンプは今日の早朝。どこかのオフィス街だろうか、道路の一部がクレーターのようにほぼ円形を描いて陥没していて、周囲には自動車らしい鉄屑の山がある。

「これ、丸の内? 八重洲か? まさか昨夜の地震って、隕石……いや、考え過ぎか」

 これにCD-Rが同梱されている。文書類はここに収められているのだろう。分室備え付けのパソコンを立ち上げて放り込んでみる。

「読み込みエラーだと? このポンコツがっ」

 試しに、いつも持ち歩いている私物のモバイルPCを取り出し、コンボドライブに放り込んでみた。 

「認識しない? おかしいな、そんなはず……」

 あれこれ試してみたが、どうやっても読み込めない。Rを焼く際にエラーでも起きたのだろうか。
 続けて警察庁からのファイルを開く。こちらもほとんど写真ばかりだが、どこか見覚えがある。

「そうだ。昨日のニュース。芝浦埠頭の傷害事件」

 つまり警察の捜査資料であるらしい。関連性はわからないが、オービスが撮影したらしき画像もある。車種は旧型のワーゲンだろうか。どこのレーサー気取りがやらかしたのか、ドリフトを決めた車体はナンバープレートが識別できない絶妙の角度に傾いていて、タイヤがもうもうと白煙を上げていた。
 他にも、松永泰紀、松永恵、須賀健一郎といった見も知らぬ未成年者らの詳細な写真付きプロフィールや、どこかの海岸に打ち上げられた漁船の様子などがあったが、それらの関連性など久瀬に読み解けるものではない。完全に理解不能。

「……やれやれ」

 手当たり次第に広げた写真やファイルを見下ろして、久瀬は腕を組み、途方に暮れた。




 結局、久瀬は書類の束を全部持って、内閣情報官の執務室を訪れていた。

 このポストは代々、外事の要職を経験した公安畑の警察官僚が歴任している。久瀬が噂話で聞いたところでは、警察庁長官に成り損ねた者の指定席であるらしい。警察官僚のエリートコース、その頂点を極めんとする最後の最後で競り負けた結果が、情報調査室の責任者という一種の残念賞、定年間際に与えられた政府の温情なのだろう。
 つまり、内閣情報官も広義の落伍者と言えるのだが、実力、経験ともに警察庁の頂点に立っていても不思議ではなかった人物である。物言わずとも相応の威厳や風格を感じさせるし、彼と向き合う久瀬の顔にも心なしか緊張の色があった。

「これは全て、特務分室……いや、山形参事官宛てのものだな。何故、君が封を開けた」

 一通り書類を確認した後、情報官が言う。
 その低く響く声音と鋭い視線に、久瀬の背筋が伸びた。

「申し訳ありません、山形参事官が不在ですので、至急とあるものはせめて内容の確認だけでもと」

 その答えを聞いた情報官は、深い溜め息を一つ。

「天井の蛍光灯が切れた訳でもあるまいに、よりによって山形君のデスクライトだけを使うとはな……。これでは、符丁を勘違いした連中を責めるわけにも……」
「は?」
「いや、すまん。こっちの話だ」

 情報官は、また深い溜め息を吐いた。

「僭越ですが、情報官にはこの写真やCD-Rの意味がおわかりになるのでしょうか」
「立場上、概要程度はな。詳細を把握しているのは山形君だけだが」
「では、休暇中の山形参事官の連絡先を。可能なら私が電話で指示を仰ぎ、処理に当たります」

 またまた情報官は溜め息を吐いて、

「君は仕事に生真面目すぎるんだ。全く」

 この言葉に、久瀬はつい、カチンとくる。

「最低限、やるべきことをしただけのつもりです。それともサボった方がよかったと?」
「そうではない。少しは口を慎め。その一言余計な物言いが災いしてうちへ回されたのをもう忘れたのか」
「……すみません」

 情報官はもう一回溜め息をついてから、机上の電話機を手元に引き寄せ、受話器を取り上げる。

「私だ。クウェートの大使館を頼む」
「クウェート……? あの、情報官……」

 問いかけてくる久瀬に、情報官は「黙っていろ」と無言の圧力をかける。

「……ご苦労様。いや、モスルの話はいい。今日は別件だ。山形君は? すまんが替わってくれ」

 どうやら、本当に国際電話をかけているらしい。

(なんで、あのハゲがクウェートにいるんだ……)

 現在、中東情勢は混迷を極めている。日本政府も人道的復興支援の名目で自衛隊を派遣して事態の収拾に当たっているが、特にクウェートの日本大使館は文官らの最前線基地と言っても過言ではない。休暇だからと観光気分で出かけられるような場所ではないはずだ。
 その間、情報官は「久瀬君が特務分室宛ての書簡を開けてしまった」などと電話の向こうに簡単な説明をして、久瀬に受話器を差し出してきた。

「山形君が出ている。直接話したまえ」

 言われた通り、久瀬は受話器を受け取る。

「参事官ですか? 久瀬です」
『あー、留守にしてすまんな、久瀬君』

 聞き憶えのある、間の抜けた中年男の声。
 間違いなく、山形参事官その人だった。

(国際電話の割には、ずいぶんはっきり聞こえるな。ラグもないし……。やっぱりクウェートは聞き間違いか)

 久瀬は一人、納得する。

「参事官、特務分室宛てに相当な量の文書が来ているんです。一つは防衛庁の防衛局、それから……」
『いや、そこまでにしてくれないか。こちらも忙しくてね。あまり電話に時間を割いてはいられん』
「そんな、こっちは仕事の話で……」
『こちらも仕事なんだよ。ところで、君はあの資料をどう理解した?』
「理解も何も、何のことかさっぱりわかりません」
『そうか。まあ、そうだろうな』

 そして、少しの間、山形参事官は考えて。

『……久瀬君。これは少々、面倒な仕事なんだ』

 妙に硬い構えた口調で言い始めた。

『急いで戻りたいところなんだが、今日明日という訳にもいかなくてね。そこでだ。久瀬君に今夜の予定が何もなくて、残業を買って出てくれるなら、応急的な処置だけでも頼みたいんだがね。どうかな』

 久瀬にとっては、全く馬鹿馬鹿しい台詞である。

「どうも何も。そういうことが自分の領分ではないのですか? 上司に頼まれた仕事を拒否する部下はいませ……って、あ、あの、情報官?」

 急に情報官が手を伸ばし、受話器をひったくる。

「君は外に出ていろ。山形君と少し話がある」

 有無を言わせず、久瀬は部屋の外に追い出された。

「……何なんだよ」

 そして、三分ほど経って。

「久瀬君、入りたまえ」

 呼び出されて、受話器を差し出された。

「山形君から仕事の説明がある。早くしたまえ」

 何故こんなにも情報官は不機嫌なのだろうと首を傾げつつ、久瀬は受話器を受け取る。

『いいかな、久瀬君。今から指示をするから。私の言う通りにやってくれ。言う通りに、だぞ。くれぐれも間違いなくな』
「はあ……。あ、すみません情報官、メモとペンをお借りします」

 メモを取る久瀬の脇で、情報官がまた深い溜め息をつくが、久瀬は気付かなかった。




 そして、久瀬が特務分室に戻ってくる。
 その手には、山形参事官の指示を書き留めたメモと、情報官から借りた鍵が一つ握られていた。

「まずは、参事官の机の一番上の引き出しに……」

 鍵を使って錠を外し、ファイルを取り出す。
 表紙には、筆記体の英文が手書きで連ねられていた。

「Ext…… Supern…… Phen…… Assem…… Rea…… ? 読めないな、あのハゲはファイルの題字すらちゃんと書けないのか……」

 ファイルを開くと、顔写真がついた履歴書風の書類がたったの三枚だけ綴られている。

「何だこれ、女子中学生? 名前は大地瑤子。次が……へぇ、結構な美人だな。昭月綾? それから……予備校生って、浪人中か。日向みつき……」

 ただ、名前の脇に記された英単語とアルファベットの意味がさっぱり理解できない。

○日向みつき/Passive[S-I]:Active[S-over]
○昭月綾/Passive[S-III+]:Active [S-0]
○大地瑤子/Passive[--]:Active [--] (E.X.)

「略語なのか……? 文書は誰にでもわかるように書けよ、どこの部局でも常識だろ」

 山形参事官によると、この三人は「内閣官房参与の待遇をつけて助言を請うても良いほどの重要人物」らしいのだが。

「……正気か。こんな若い女、テレビ局の街頭インタビューがせいぜいだろ」

 疑問は残るが、世情の調査だ分析だとうそぶきながら雑誌や新聞を半世紀以上も切り抜き続けてきたのが情報調査室だ。こんな若い娘らの話を「貴重な世情のサンプル」などと祭り上げていたとしても不思議はない。いや、そうとしか考えられない。
 一気にやる気が失せてきたが、今更放り出す訳にもいかない。書類に記された三人の連絡先を元に、指示された仕事の流れを再度確認する。

「特務分室の電話をゼロ発信して三人に連絡を取り、松永なにがしの傷害事件について憶えはあるかと訊く。もし先方が詳しい話をする意志を見せた場合、詳しい話は電話では避け、直接会うこと。場所はデスク中段の引き出しにある手帳五ページ目に列記された店であればどこでも可。そして、彼女らの話をボイスレコーダーに録音、情報官に提出」

 久瀬はそれらを一つずつ片付けようとするが、

「特務分室の電話でゼロ発信って……ただの外線だよな。いちいち指示することかよ」

 初対面の相手と待ち合わせる可能性もあるのだから、久瀬自身の携帯電話でかけた方が手っ取り早い。送信履歴からのリダイヤルも容易なのだから。

「で、デスクの中段にある手帳は……これか」

 その五ページ目に書かれていた店の名は――。

 有楽町の料亭、東雲。
 赤坂の中華料理店、龍酔楼。
 銀座の懐石割烹、むら川。
 紀尾井町のフレンチ、サンセリテ。
 六本木の多国籍創作料理、那戸乃。

「おい、これ……。たしか、与党の議員がよく会合に使ってる料亭じゃないか? あと、こっちは確か、前に総理がどこかの大統領と会食した……」

 一瞬血の気が引いた。こんな高級料亭やレストランでは一見の客などお断りだし、料金も信用払いになる。予約の電話を入れても取り合ってくれると思えないし、よしんば席が確保できたとしても、超高級料理四人分の料金を久瀬が自腹で払うことになりかねない。

 何かの間違いだろうと、久瀬はページの前後を確かめる。

 何も書いていない遊び紙を一ページ目と数えて五ページ先へ進むと、恵比寿にあるシムノンというコーヒーショップのアドレスがあった。ただ、そのページには他に飲食店らしきアドレスが見当たらず選択の余地がない。

「仕事の内容がコレだしな、こっちの方が正解だろ」

 そして、久瀬は自分の携帯電話を取り出す。
 相手先の電話番号を入力し、待つこと暫し。

『ふぁい……。もぉしもぉし……?』

 寝起きらしいとぼけた声に、久瀬は思わず顔をしかめた。
 が、それでも失礼のないよう仕事口調で、

「夜分に恐れ入ります。私は内閣官房……」

 情報調査室の久瀬と申しますが、と言う前に。

『あ~……でんわ、来ると思ってましたぁ……。やまがたさん、ごめんなさ~い……。あのですね、わたしぃ、きのう……全然、ねてなくてぇ……』

 あまりに気安いその声に、久瀬は呆気にとられて二の句が継げなかった。

『え~と、どっかで待ち合わせですよねぇ……お話はそこでしますね~。すんごい長くなると思うから……ほんとのほんとに、ごめんなさ~いぃ……。えーと、九時には都心に出られると思うんですけどぉ、どこいけばいいですかぁ……?』

 話の通りが良過ぎないかと感じたが、山形参事官から指示された通りの展開ではある。久瀬はコーヒーショップの場所と名前を告げて電話を切った。

「今のが、日向みつき、か」

 ろくに確認もせず、寝ぼけ半分で自分と山形参事官を勘違いした彼女に苦笑するしかない。ファイルにあるすまし顔の写真では特徴のない地味な娘という印象しか受けないが、性格はいかにもおっちょこちょいで受験に失敗しそうな子だと思えた。

(そういえば、どの子もずっと年下なんだから、敬語使うのも不自然か)

 思いつつ、続けて大地瑤子に連絡を試みる。

「なんだ、なかなか出ないな……」

 一分近くコールし続ける。そして。

『……誰ですか』

 電話を受けた瑤子の第一声。
 通知に見知らぬ番号が出たからか、警戒心を隠しもしない。

「内閣官房、情報調査室の久瀬と言うんだが」
『特務分室の人ですか? 新人さん?』
「ああ、上司の山形からの指示でな。今から……」
『嫌です』

 はねつけるような、瑤子の即答だった。

『ひなたセンパイ、昨日のことで疲れてるはずなんです。休ませてあげたいんです。あたしもそう。二日連続で寮の消灯点呼を誤魔化すのって体裁悪いし』
「いや、そう言われても……参ったな」
『絶対、センパイには電話しないで。それじゃ』
「い、いや、するなも何も、君より先に電話しててな。恵比寿のシムノンっていうコーヒーショップで会うように約束もして……」
『行きます』
「は?」
『センパイが行くなら行きます。時間は?』
「……九時に」
『わかりました』

 ブツッ、と、いきなり電話が切れた。

「最近の中学生は最低限の礼儀も知らないのか」

 幾分ムッとしながら、久瀬は最後の一人、昭月綾に電話をかける。前の二人は携帯電話の番号だったが、今度は自宅の固定電話らしかった。

『はい、昭月です』

 即応等。呼び出し音は一度分すら鳴らなかった。
 虚を突かれた久瀬が、まず名乗ろうと息を吸う。

『あら……? 失礼ですが、この電話は霞ヶ関からですよね。そろそろ内調から電話が来る頃だとは思っていたけれど、山形参事官じゃないわよね。あなた、どなた?』

 吸った息が止まるほど驚いた。彼女が電話に出てから今まで、こちらが声を発した記憶はない。山形参事官かどうかなど判断できるはずがなかった。
 けれど、その疑問を口にしてみても仕方がない。最近は固定電話でも着信番号が表示されるのだから、それで判断したのだろうと思い込む。

「……名前は久瀬隆平。一応、山形の部下なんだ」
『特務分室に増員があったということ?』
「ああ、この四月からな。それで、先日の件で……」
『待って。確かに私たちが関わったのだけれど、そんな話、本当に今してもいいの?』
「いいも何も、上司の山形からの指示なんだが」
『どういうこと? 事情が見えないわね、山形さんと替わって下さらない?』
「いや、山形はいないんだ。話があるなら俺が伝えるよ。恵比寿にシムノンというコーヒーショップがあるはずなんだが、そこへ来てくれるか。日向みつきと大地瑤子って子も来ることになってる」
『恵比寿……シムノン、コーヒーショップ?』
「何なら、詳しい住所も教えるが」

 ほんの一呼吸ほど、間があった。

『ああ、そういうこと』
「ん?」
『仕方ないわね、あなたの言う通りにするわ。ただ、覚悟はしておいて』
「覚悟?」

 どういう意味か問い質そうとしたら、電話が切れた。

「……何なんだよ、ったく」

 美人は性格に難があるものだと言うが、その典型なのかもしれない──などと思いつつ、久瀬は待ち合わせ場所へ向かうべく特務分室を後にする。
 懐に入れた退職願のことなど、すっかり忘れて。



 それと時を同じくして、霞ヶ関周辺の各所で闇に紛れて密かに動き始めた者たちがいた。
 年齢、性別、国籍すべてバラバラだが、彼らが今向かおうとしている場所には奇妙な共通項があった。米・英・独・露・伊・仏・加、日本を除く先進八カ国の在日公館、そのどれかを目指しているのだ。

 その中でも、さらに奇妙な一致を見せた五人がいた。
 公館に入ってから取った行動が、全く同じなのだ。
 関係者でもごく一部の者しか知らない通信室へ真っ直ぐ入り、直通回線を使って本国の情報機関へ連絡をつけたのである。

 米公館を訪れた者は、中央情報局(CIA)へ。
 英公館を訪れた者は、秘密情報庁(SIS)へ。
 仏公館を訪れた者は、対外治安総局(DGSE)へ。
 独公館を訪れた者は、連邦情報庁(BND)へ。
 露公館を訪れた者は、対外情報庁(SVR/旧ソ連KGB)へ。

 さほど時間を要さず、これらの情報機関は返答をしてきたのだが、五通りの文言が意味するところも偶然とは思えない奇妙な一致を見せた。
 それをあえて大胆に、かつ的確に意訳してみせるなら、こうなる。

『久瀬隆平を抹殺せよ』


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