保守主義の祖 福沢諭吉 を考察する

近代日本における保守主義の祖である福沢

『西洋事情』などを書き、文明開化を率先した福沢であるが、実は保守主義を体現した人物だった。

「勤王でも佐幕でも、試みに当たって砕けるのが書生だが、私にはそのような性質習慣がない」書生が持つ熱狂を嫌った福沢は、維新前後の13年間外出すらしなかったことを考えると熱狂とはほど遠い人物だろう。
このようなバランス感覚は「一身独立」という言葉に凝縮されている。これは他者との関係性で節度と平衡を保つ重要さを言わんとしているのだ。
一身独立には、個人主義の含意は全くない。他者関係を前提にし、そのなかで平衡を保つことが独立なのである。

さらに、「学問、工業、政治もみな人間交際の為にするものであり、人間の交際がなければいずれも不用」とまで言い切っている。  
そして「国法として定まったときは、個の為に不便であってもその改革まではこれを動かすを得ず」として、法治を明確に唱えたのも福沢だ。
そして何より、「自由独立というときは、字義のなかに義務の考えなかるべからず」と語り道徳の大切さを説いている。ここを見逃して、「大観院独立自尊居士」だけをみていては、福沢の真の姿を見失う。


やせ我慢


我慢は「いやいや、しぶしぶ行う」ときに発生する。やせ我慢は、しなくてもよいが、あえて自ら進んで自発的に我慢すること。進んでするものであるから私情である。しかし自己を抑えるのであるから、そこに何かー公道があるのだ。私情と公道の緊張関係の自覚が肝要で、福沢は其処に「私立」をみた。

『瘦我慢の説』の中で三河武士を持ちあげ、榎本武揚、勝海舟を糾弾する。
忠君愛国は私情だが、私情も集まればそれは国の美徳ともなる。
そして福沢は以下のように語る。
「自国の衰退に際し、力のあらん限りを尽くしいよいよ勝敗の極みに至りて、はじめて和を講じるか、死を決するかは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべき」
勝は、この義務を放擲、榎本は1度は殉じたが、明治政府の高官に収まった。福沢は義務の観念を重要視した。自由独立というときは、必ず義務が発生しているのだ。この二人は「荷物を担わず休息している」代表格に見えたのだ。
瘦せ我慢は、ひとりの武士道について語ったものではなく、自由の大義そのものだったのだ。
義務の観念の関わりで自由を議論することは保守主義の真骨頂である。(バーク、トックビル)

私立=瘦我慢


私立は個人として自立、独立する事。しかし、一人立ちしたからといって好き勝手していいものではない。(放縦)私欲や打算ではない、もう1つ上位の私情。義理、責任、慈悲という私情としての公的な意識の自覚が瘦我慢。これが私立の核心である。人間社会に純粋個人主義など存在しない。常に個人の行為は他者のためにある。少なからず、他者に影響を与えるものである。
公的な行為への根底へは他者への関心があるのだ。他者に対して自分を開く性質、さらに他者と善きつながりを持つ性質である。これらの性質が一体感をもたらすのである。

公私は常に対立概念として捉えられている。さらに公が私に先立つと、そこにお上思想やお上志向が生まれ公私の入れ子構造が生じる。個人→家→村→藩→国の順に公の度合いが高くなる。此のランクに従って公私が相対的に判断される。そして公が私に優先するので、滅私奉公が生まれるのである。


ここでもう一度、勝海舟へ


公私の分別は相対的で、社会状況が変われば公私が替るのである。勝の論理はまさにここに立脚している。今までは江戸幕府が最高位の公であったが、内乱状態となると「国の独立」がより大きな公となり、幕府の体制維持などは私なのである。無血開城で勝は有名になったが煎じ詰めれば公私の入れ子構造の世界観の持ち主であったのである。

この発想を嫌ったのが福沢である。あくまでも国は私によって成立していると考えたのである。勝のような生き方を肯定すると権力の渡り歩きとなり、国家がご都合主義になってしまう。ここに福沢が危惧したのである。またユニークなことに瘦せ我慢を書いたがすぐには発表しなかった。実は勝にまず瘦せ我慢を読ませ、返事を求めたのである。勝の返事は「自分の行動は自己責任。それに対する評価は他人の仕事である。毀誉褒貶にはくみしない。あなたの文章を発表していただき結構である。」
実際の発表は約10年後であった。

公共心、公的精神を示す言葉に奉仕や社会貢献、士道など「高級な」言葉がある。しかしこのような言葉は、人々に有り難がられても意味内容を考えることがあまりない。
言葉だけが独り歩きし、そのうち空疎なお題目や説教へとなり下がることで俗化するのだ。
しかし、瘦我慢という表現を使えばこれ以上に俗化することなしに、かえって真意が伝わり易いのである。

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