俳句の基礎の「き」

 

 俳諧は元来、たわむれ、おどけの意を表す言葉で、俳諧の連歌とは、「従来の連歌のように格式張らず、世俗的な言葉も使って楽しむ連歌」  

松尾芭蕉も、与謝蕪村も、小林一茶も、俳諧の連歌を生業とする俳諧師。 だから、彼らを、すぐれた「俳句」を作った人と形容するのは、本当は正確さに欠く。 

まず、誰かが五・七・五音の句(長句)を詠む。

この第一句目を発句(ほっく) 

この発句を踏まえて、別のだれかが七・七音の句(短句)を付ける。 

この第二句目を脇 

次にこの脇に付く長句を、誰かが第三句目として詠む。 

このように長句と短句を交互に詠んでいき、三十六句目まで続ける。 

これが俳諧の連歌。  

なお、最後の三十六句目は、挙句(あげく)。 

今でもよく用いられる「挙げ句の果て」という慣用句は、ここから来ている。 この俳諧の連歌には、いくつか決まりごとがあったが、一番最初に詠まれる発句には、時候の挨拶がわりにその時々の季語を入れるのが習い。

そう、この季語を入れて詠んだ「俳諧の連歌の発句」こそが、現代の俳句の直接の祖先である。 芭蕉も蕪村も一茶も、俳諧の連歌を楽しむ中で、この発句作りには特に力を入れていた。 

明治時代、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句で知られる正岡子規は、複数人で行う俳諧の連歌を否定。 

そして、季語を入れ五・七・五音で詠む従来の「俳諧の連歌の発句」を、新たに「俳句」として一人立ちさせ、個人で創作できる文芸へと変えた。 

ここに、有季定型で作る「俳句」が誕生したのだ。 

俳句の基本 1 

俳句の意味が分からない、と訴える人の多くは、「切れ」が読めていない場合が多い。俳句には「切れ」がある。そのことを知っただけで、ほとんどの俳句が、自分なりには読めるようになる。や、かな、けり、が切字

切れ字 

切れを生み出す「かな」「や」「けり」の三つの語。音調を整える役割もある。 

「かな」は末尾に使われることが多く、感動、詠嘆を表す。 

「や」は上の句に使われることが多く、詠嘆や呼びかけを表す。 

「けり」は末尾に使われることが多く、断言するような強い調子を与える。

また、過去を表す助動詞であることから、過去の事実を断定するような意味合いを与える。

 
 菊の香や奈良には古き仏達    松尾芭蕉

菊が薫っているということと、奈良に古くからの仏が存在していることの間に因果関係はないことを、「や」という「切字」が明示している。一方に「菊の香」があり、同時に「古き仏達」がいる。そのふたつのものが持つイメージの重なったところに風情が生まれる。なぜこうした「切れ」という手法が生まれたかと言えば、十七音という短い詩形の中で、より多くのことを伝えようとするからである。散文の十七音とは比べものにならないほど多くのことを、俳句の十七音は伝えようとする。

 この「切れ」という方法は、今は俳句だけのものではない。映画で、あるショットから次のショットへのつなぎ方をわざと飛躍させ、単に足したもの以上の新しい意味を生み出そうとする「モンタージュ」という。


俳句の基本2 

短く言って、あとは黙る 長い詩では、言い換えたり、反復したり、譬えたり、否定したりして言葉を接ぎ足し、読み手をその作品の世界に引きずり込んでいく。朗々と続く美しい言葉のうねりに呑み込まれていくことが、詩を聞いたり読んだりすることの悦楽である。詩人の才能とは、一般にそのような言葉を次から次へ生み出せる能力だと思われている。それは、教典や聖書を書き上げたいにしえの宗教家の能力に連なる才能である。 

ところが、俳句は違う。俳人は、ひとこと言って、あとは黙る。これは、他のすべての詩形とは違った態度の取り方だと言えるだろう。 

いや、詩だけではない。戯曲にしても小説にしても、作家は、次々に言葉を継ぎ足し、読者の気を惹き続けようとする。これもまた反俳句的なやり方である。

俳句の基本3 

凝縮 「省略」は重要である。しかし、それは俳句の目的ではない。省略は、「凝縮」のための手段である。余計なことを言わずに、重複した部分を削ぎ取ることによって、一句の密度を最大に増やす。それが「凝縮」ということである。

金剛の露ひとつぶや石の上         川端茅舎 

無駄のない引き締まった表現は読んでいて気持ちがいいばかりでなく、明確なイメージを浮かび出させる。 

また、この句からも分かるように、「切れ」もまた凝縮した表現を生み出す。余計な説明を加えず、ただ「石の上」と置いたところに、読者の眼前にありありとした光景を作りだす秘訣がある。

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