そもそも教養とは?

教養とは何か?

改めて今なぜ教養なのでしょうか?激変の時代、先が見えにくい時代において座標軸が不可欠なのです。そしてその軸を与えてくれるものが教養です。また物事の本質を見抜く目、時代を先取りする目は大局観を養うことで生まれてきます。
また日本には「教養人」という言葉があります。アメリカ人や日本人というような使い方ではありません。わかるような、わからないような… 何か釈然としない曖昧な言葉です。例えば難しい字が読める、読書家、芸術や文化などに精通している人を「教養人」と称するかもしれません。また象牙の塔にこもって、世俗と一線を画している「青白きインテリ」のイメージを持つかもしれないですね。反対に「教養がない」を「品位がない」や「常識が無い」などとリンクさせることも多々あります。
これらのイメージは基本的に正しくもあり、正しくないのです。どれも当たりでどれも外れです。実は大切なことは「教養人」が尊敬を得るのは、単なる知識量ではなく、それに伴う人間性の高さが伴うことが前提だからである。「品位」「品格」にかかわるということなのです。

知識のなさ=品格の低さではない!

そもそも論からいきます。「教養」は、英語ではなんと「culture」(粗野な状態から耕された、人為的なという意味合い)、ドイツ語では「Buildung」(作られたもの)です。このように言語レベルでは意味合いに温度差がありますが、双方ともに「自然」ではないという点では共通項があります。自然のままでは洗練されていないので、教育などを施して人為的、人工的に仕上げていくというイメージです。粗野な人を洗練された人が教えていくのだという割と「上から目線」の言葉ともいえます。そこに教養という言葉が含むエレガントさがあるのでしょう。


リベラル・アーツとは?

もう1つ曖昧な概念として「リベラル・アーツ」があります。これは、学士課程における、人文、社会、自然科学を包括する分野です。かく言う私も大学では国際政治経済学と英国文学(シェイクスピアと批評理論)専攻し、副専攻が哲学でしたのでリベラル・アーツを身を持って経験してきた人間です。
では、ここでそもそも論に戻ります。リベラル(liberal)には「豊富な」という意味もあり、アーツ(arts)には「学問」の意味があります。artは芸術や美術ですが、複数形になると学問になってしまいます。要するに、豊富な学問=教養となるのです。短絡的に言えば、物知りさん=教養人となっても間違いではないのです。
リベラル・アーツの起源は古代ギリシャにまで遡り、プラトンの『国家』の中でも書かれています。リベラル・アーツは元来、人を自由にする学問という意味であって自由人と奴隷とを選別する道具としての教養でした。こんな昔からガツンと上から見るための道具立てだったのです。いや、昔の方が過激であっかもしれません。

また「教養人」は一般人とは違うということを芸術、文学でも非常に分かりやすい形で表現しています。例えば、オペラなども初期のころは、王様や神を題材にしていました。絵画もしかりです。ルネサンスも「人間中心主義」を謳いながらも、貴族を中心とした文化運動のため、一時期で終焉をみました。

いわゆる一般の人を前面に出したのは1800年から1850年のロマン主義からです。(これが芸術の民主化です。)特に詩文ではワーズワース、シェリー、キーツなどがその先導役となりました。
日本のおいても教養人なりのエリート意識はあり、身分の差、教育の差、結局は「教養」の差が障害となって結婚できないなどは日常茶飯事だったわけです。

教養を考える

ここまで教養の起源や、世間一般でのイメージを考えてきましたが、どうもまだ曖昧です。残尿感があります。社会的地位のある人はともかく、職人や農民には教養がないのでしょうか?いや、当然あります!

教養とは、よりよく生きるためのもの、「いかに生きるか」を問うものといえるのです。
ここからは私の敬愛する、一橋大学元学長・阿部謹也さんの『教養とは何か』を援用して話しを進めます。まず阿部さんは教養を以下のように定義しています。

「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のために何ができるかを知っている状態、あるいは知ろうと努力している状況」

今までの教養のイメージとは全然違う!?
例えば、農民は農業が民の生活を支えていることを知っている、そしてそれがどれだけ重要なことかも知っているのです。
さらに教養には2種類があると指摘されています。

文字の教養
身振りの教養

は一般的に語られる教養です。難しい本が読める、字が読めるなどの知識です。
は、立ち居振る舞い、行為など社会的な生産物としての教養です。

欧州では、エリートとしての教養は明らかに①です。そして教養なるものは世間から隔絶された「大学」という場所で純粋培養されると考えられていました。これが欧州発の「合理主義」の誕生(デカルトなど)となっていくのです。
言い換えると、欧州では純粋個人の教養人を想定していたのです。

もっと重要な教養は②です。話し方、身振り、立ち居振る舞いでその人の「教養」が見えることは非常に多いですよね。これこそが教養は世間で作られるとされるというポイントなのです。特に日本は文字の教養よりもこちらが重要視されてきたと言えます。華道や茶道はその典型でしょう。何らかの儀式で着る物や立ち居振る舞いを間違えると「教養がない」と言われてしまいます。

世間とは?

ではここで厄介な問題を考えます。阿部さんが指摘する教養が作られるとされる「世間」とは一体何でしょうか?
社会ではない、世間です。一緒じゃないの?思われるかもしれませんが実は大きく異なるのです。

簡単にまとめてみます。
社会=人為的、近代的、制度、形式、大きな世界
世間=自然発生、古代から存在、本音、小さな世界

と区分けできるのです。世間は人と人とのべたっとした、ウェットな関係から成り立つ、本音の世界です。イメージは井戸端会議や「無礼講」です。反対に社会は、形式的で規範的なものです。ルールや形で括られた息苦しい感じです。最初は小さな行動世界であった世間が都市になって、大きくなり肥大化し、そして制度化されるのです。そこにルールや規制が生まれて、権威が誕生するのです。大きくなるとどうしても押さえる力が必要になります。しかし世間という小空間では、基本平等であり本音で語りあうのです。

阿部さんに言わせると、‘教養人とは、肩書きや権威ではなく人と人を結びつけることができる世間を構築する人、その人間的質‘です。そして、世間の中で世間を変えていく、しかもそれは権力や権威で押し付けて変えるのではなく、その人の「生き方」を見せることで変えていく人です。実は教養とは生き方(the way of living)そのものなのです。「背中を見せる」という言い方がありますが、ある意味、背中を見せることができる人は、教養人なのかも知れません。

なぜ今、哲学か?

先が見えないと言われて久しい時代です。
「何が正しいのか?」
「幸せとは?」
などの根本的な問題に直面しているのが現代ともいえます。グローバル化、大震災、テロの恐怖、IT進化などなど想定外のスピードとマグニチュードで物事が変化しているときこそ「本質」を問いたくなるのです。

このようなとき哲学が威力を発揮するのです。風雪に耐え、培われた人類の英知を利用しない手はないでしょう。

哲学(Philosophy)はphilo(愛)+sophy(知恵) から成り立っています。
ですから哲学は「知恵を愛する」ことを意味しています。
そして哲学とは、「物事の意味についてどんどん遡り考え、限界まで抽象化させていく作業」です。

その究極の最後の姿が「本質」「真理」と言われるのです。ここにたどり着かんと世界の哲学者は日夜、思考を重ねてきたのです。

哲学することの重要性

本質や真理は誰しもが知りたいものです。究極の原理を知るなんて魅力的です。世界全てが解る気がします。しかし、哲学には即効性ありません。即手に入るのではなく、玉ねぎの皮を1枚1枚剥くように進み、探究していくのです。思考を重ねていくのです。このプロセスが哲学の基本スタンスです。お腹が空いたときのインスタントラーメンというわけにはいかないのです。すぐに答えを与えてくれる「スキル本」の真逆なのです。

探究プロセスでは必ず自己の頭を使います。ここが単に答えを聞いただけ、受け売りスキルだけを手に入れた人との大きな差なのです。(受験戦争や入社試験などの「偏差値主義」の弊害)スキルは日進月歩ですが、真理は普遍なのです。

ではなぜ自己の頭を使うと良いのか?

大きく2つメリットがあります。

自分で考えた結果なので、その答えを選んだ理由がわかっている。
人から得た答えは、後悔の元となります。さらによりよく生きるためには心の安定と平静が重要。ギリシャ時代の哲学の課題は心の安定でした。自分で納得した答えであれば、心は落ち着き、よりよく生きることにつながるのです。

応用が利く

本質や真理を会得するとそこから派生する応用ができるようになります。類似ケースで、過去のプロセスによって物事も解決しやすくなるでしょう。また社会での仕事はほとんど想定外の連続。そのような現実に対して自分の手札、武器が増えるのです。これによってよりよく生きることができるでしょう。

私たちは考えると言うプロセスを通じてのみ、良く生きることができるのです。


現代のアゴラは?

AGORA(アゴラ)とは古代ギリシャ語で「広場」を意味する言葉。
AGORAは、政治・経済・哲学・文学などの議論に花を咲かせる市民生活の中心であったとされていて、教養(リベラル・アーツ)の源泉がここにあります。そして近代においては「サロン」がアゴラでした。パリなどの都市のカフェで夜な夜な、立場を超えて人が集まってコーヒーやワイン片手に語り合うのです。日本には、教育の場としての「寺子屋」はありましたが、民主的なアゴラはほとんどなかったのではないでしょうか。先生―生徒の関係はあっても、自由に語れるアゴラの欠如が、「自分の頭を使う」ことが癖付けできなかったのかもしれません。
では現代におけるAGORAの役割は何でしょうか?
それは、世代を超えて人と交わり、情報と知識を共有することにより歴史に学び知恵を獲得することです。
もう1度、最初の問題に戻ります。そもそもなぜ教養が必要なのでしょうか?
変化の激しい時代においては、しっかりとした座標軸が不可欠です。その軸を与えてくれるものが教養です。また前述したように本質を見抜く目、時代を先取りする目は大局観を養うことで生まれてきます。私たちはどこから来てどこへ向かうのか?を理解することが大切なのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?