代表的日本人 内村鑑三を考察する

『代表的日本人』に扱われているのは5人の日本人である。キリスト教に感化されつづけた内村がこの5人をなぜ選んだのか?

時代順には日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛となる。これを内村は逆に並べて一冊とした。
 

なぜこの5人か?この5人は内村にとってはキリスト者なのである。このことについては、本書のドイツ語版のあとがきに内村自身がこんなことを書いている。

「私は、宗教とは何かをキリスト教の宣教師より学んだのではありません。その前には日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の神髄を教えてくれたのであります。


 何人もの藤樹が私どもの教師であり、何人もの鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また、何人もの西郷が私どもの政治家でありました。その人々により、召されてナザレの神の人にひれふす前の私が、形づくられていたのであります。」
 
さらに『キリスト伝研究』(先駆者ヨハネの章)では、かれらとキリスト教が深い絆でつなげられている。 

其意味に於て純潔なる儒教と公正なる神道とはキリストの福音の善き準備であった。伊藤仁斎、中江藤樹、本居宣長、平田篤胤等は日本に於て幾分にてもバプテスマのヨハネの役目を務めた者である。 

内村にとっては、仁斎・宣長・篤胤も中江藤樹と同様のヨハネなのである。内村はこの見方を生涯にわたって捨てようとはしなかった。内村にはひとつのJ(イエス)を、もうひとつのJ(日本)に重ねる使命があった。

「私は2つのJを愛する。第3のものはない。私はすべての友を失うとも、イエスと日本を失うことはない」という有名な宣言にあるように、内村は自分自身のためにも日蓮や藤樹や西郷をキリストの魂をもつ日本人に見立てたのである。


 では、その視座から内村は何を試みたのか。西洋に育ったキリスト教を非制度化したかったのでは?

キリスト教に真の自由をもたらしたかった。そのうえで日本的キリスト教を打ち立て、非武装日本をつくりたかった。

つまりは、日本人の魂が解放される国をつくりたかったのだ。(非戦論)では、非戦と不戦の違いは?

 内村鑑三は国粋主義者だったのか?

彼は確かに武士の魂を褒め称えた。内村はこのように書いた。


 「武士道はたしかに立派であります。それでもやはり、この世の一道徳に過ぎないのであります。その道徳はスパルタの道徳、またはストア派の信仰と同じものです。武士道では、人を回心させ、その人を新しい被造者、赦された罪人とすることは決してできないのであります」。


 内村鑑三は世界主義者だったのか?

内村は日本を世界の動向とともに見ていた。そこには「太平洋の両岸の中国とカリフォルニアがほとんど同時に開かれて、ここに世界の両端を結ぶために日本を開く必要が生じた」という見方を原点にもっていた。


 しかし一方で、内村はサムライの精神をもって世界に対峙しつづけようとした。『代表的日本人』の「あとがき」にはこんな文章がある。「たとえ、この世の全キリスト教信徒が反対側に立ち、バール・マモンこれぞわが神と唱えようとも、神の恩恵により真のサムライの子である私は、こちら側に立ち言い張るでありましょう。いな、主なる神のみわが神なり、と」。

 内村は矛盾していたのか?

実際、彼にはナショナリズムとグローバリズムが混じっている。2つの思考が交互に出て、せめぎ合っているのだ。それは明治キリスト教に共通する特質でもあるが、内村においてはそれが激しく露出した。


 ところが、内村は晩年、この矛盾を持ちながら「小国主義」を唱えた。(石橋湛山などに繋がる系譜)

内村の真骨頂は、ナショナリストとしての内村は日本を今で言う「小さな政府」にしたかったのだ。そして、そういう日本を「ボーダーランド・ステイト」と呼んだ。
 境界国―かくて「日本の天職は」と内村は書いた、

「日本が日本を境界国としての小国にすることなのである」と。これは日本という国の天職なのだ。
 このような発想は、内村を除いては、みたことがない。さらに内村はそのためには日本が世界史上の宗教改革の「やりなおし」(reformation)を引き受けるべきなのではないかとさえ、考えた。

今で言う「脱構築」(デリダ)である。


 ここには、日本を世界の舞台の主人公として活躍させたいという愛国心がある。そのためにむしろあえて「小国」となって、境界者としての勤めをはたすべきであると考えたその道筋には、われわれがすっかり忘れてきた方針というものが芽生えていたのでもある。


代表的日本人とは、内村鑑三だったのである。

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