フランス革命 を考察する
ルイ14世 LouisXIV
「太陽王」と言われたルイ14世(在位1643-1715)の時代は、「朕は国家なり」という言葉が示すように、強大な「絶対王政」を誇っていた。
「絶対王政」では、国王は人間と神の間に位置しており、半ば神のような存在。そして、国王を頂点として、身分制度が正当化されており、中央集権国家が築かれていた。
しかしながら、その「絶対王政」でフランスをヨーロッパで最も巨大な国のひとつにしたとき、巨大国家になるために進んできた道そのものが実は、大国フランスを崩壊させる遠因となった。 つまり、戦争やヴェルサイユ宮殿の建設などに代表される派手な生活が財政を圧迫し始め、国庫が苦しくなっていった。
ルイ15世 LouisXV
1715年にルイ14世は逝去。続くルイ15世(在位1715-1774)はなんのとりえもない凡庸な統治者。政治を腹心に任せっきりにして、政治には無関心。
それでも、とにかくこの時代はまだフランスはイギリスと並ぶヨーロッパ一の強国。尤も、経済力・軍事力共に、産業革命で勢いづいたイギリスにヨーロッパ一の座を奪われかねず、フランスは打倒イギリスを目指し、それがアンシャン・レジームの崩壊を早めることに。
ルイ16世 LouisXVI
その孫のルイ16世(在位1774-1792)は、祖先の残した財政危機を受け継ぎ。狩猟と錠前作りが趣味という無害で善良な性格で、常に人気を気にしていた国王は、横暴な専制政治は好まず、従来の生活を変えない範囲での改革を望み、テュルゴやネッケルなど有能な人材を登用。しかし、意志が薄弱で自分の信念を貫き通すことができず中途半端で終わる。
そして、この頃から今までの矛盾が噴出し始める。そのような大きな時代の流れに耐えられるほどの意志も政治力も、ルイ16世にはなかった。
アンシャン・レジームの崩壊
アンシャン・レジームの崩壊は主に3つの事柄が原因
階級制度--この頃、力を付けてきたブルジョワジーはイギリスに対抗しようとしたが、現行の階級制度では税金ばかり取られ、思うように動きが取れない。当然ながら、不満を持つ。
経済危機--戦争で国庫は破産寸前。さらにイギリスで起こった産業革命の影響はフランスにもやってきた。大量生産が可能になったイギリスはあらゆる製品をヨーロッパ大陸に輸出し、それがフランスの産業や経済を圧迫し始めた。
スペイン継承戦争 (1701-13)
スペイン戦争 (1718-20)
ポーランド継承戦争 (1733-35)
オーストリア継承戦争 (1740-48)
七年戦争 (1756-63)
アメリカ独立戦争 (1778-83)
「度重なる飢饉による収入の減少」
1770年、1772年、1774年の飢饉
小麦粉戦争(1775年)
学問・思想の発達--学問や知識が貴族やブルジョワジーの中に普及し始め、社会の矛盾を「意識」した。
要するに、アンシャン・レジームは変化し、発展する新しい社会と衝突し始めた。
ルソー
ルソーは、国家の主権は国王でも貴族でもなく、人民にあるとし、「人民は、自己の意志に基づいて互いに契約を結び国家を構成する」と主張している。
また、「いかなる市民も、富によって他の市民を買えるほど豊かではなく、また、いかなる市民も身売りをしなければならないほど貧しくはない」状態の中で国家を成立させるべきであるとする。このことは、サン・ジュストの「金持ちも貧乏人もいらない」という言葉とほとんど同じ。まさに、革命思想の中核と言えるものである。
特権の廃止と私有財産の制限を求め、人間本来の自然の姿(「自然に帰れ」)と平等を唱える。
民衆の立場に立っている。
ジャコバン派の中心思想となる。
サロン誕生
サロン:貴婦人や上級ブルジョワの女性が主宰し、多くの啓蒙思想家を育てた。
カフェ:サロンに入れるのは特定の人だけだが、カフェには安い金で誰でも入れ、さまざまな噂話を聞いたり、トランプもできた。ここには、ヴォルテールやディドロなどの文士達、やがて革命の指導者となる多くの若者が集う。識字率の大幅な上昇に寄与。