禅とは  鈴木大拙を考察する 前編

禅とは


不立文字:経典から離れ座禅で悟りを体験すること。
教外別伝:同上
直指人心:内省を通じて自分を理解し仏性を把握すること。(汝を知れ)
見性成仏:仏と一体化して真実の人間になる。

インドの達磨→中国(唐から宋)→日本(道元、栄西、隠元)
栄西:臨済宗 道元:曹洞宗 隠元:黄檗宗

世界的な仏教学者で禅の研究者とし名高い鈴木大拙(1870-1966) という人物がいる。27才でアメリカに渡り、東洋思想の翻訳と講義を通じて、禅の思想を始めとする東洋の考え方を欧米各国に広めたある。
大拙は、西洋と東洋の考え方の違いを、言葉の違いを持って説明する。例えば、英語では、木がある。というのを「There is a tree」というが、「そこに一本の木がある」、つまりゼアという言葉とBE動詞によって、そこと木とを分割し、対象物を主客二元的に表現する。しかし日本語では、「木がある」で十分に意味が通じる。

芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」も英訳すると非常に厳密に、そのカエルが単数なのか、複数なのかを厳密に説明しなければならない。このように言葉ひとつをとっても、西洋では、つねに何かと何かを厳密に表現することが慣習となってしまっているのである。

自然という言葉がある。西洋ではギリシャ語で「Physis」、ラテン語では「Natutra」と言いどちらも、「生まれる」という動詞からから派生した名詞であって、自然と人間、神をも包括するような大きな言葉だった。そしてそれは同時に「自らの内的な力によって生まれそのようになる」、というような意味を持つ深淵な言葉であった。だからよくよく考えて見れば、今日の東洋思想にある自然観念と近い考え方をしていたことになる。

ところが西洋では、中世になり、キリスト教の神の概念が隆盛になり、自然そのものも神の創造物とされるに至った。そしていつの間にか、自然は、万物の創造主たる神の下に従属する立場に追いやられてしまったことになった。それ以来、西洋では、自然は人間同様、神に従属する立場となり、人間がそれを征服し、造り替えてしまっても構わないような対象と化してしまったのである。キリスト教は結果、科学文明と手を携えたのである。

翻って東洋では、そもそも神と自然と人間は、対立するような概念ではなく、本来一体なものだ。仏教哲学では「自然」を「じねん」と読み、「おのずから、なるべきものになる」というような意味と考えられている。また老子や荘子の説く道教では、老子二十五章に「道は自然に法る」とあるように、「自然」は「道」とほぼ同義の言葉となり、森羅万象の営みを言い表す言葉となった。しかもさらに、それは単なる「道」あるいは「自然」ではなく、存在としての人間がその一体になるべきものとして、「道」や「自然」というものとなっていったのである。

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