“彼”と“彼女”、それから“ぼく”

 一つ前の記事にて少しばかり触れたが、僕はどうやら両性愛者の気を有している。過去、恋人同士としての形を成した交際関係を、或いは肉体関係を結んだ相手について、対象とするにあたって性別が選別条件になった試しが無かった。僕自身としては性別と云う表現が指すものは一目で判る明確な性差、つまるところ体付きや性器の種類についてのみにあたる実に大雑把な生物の形状にある部分的な呼称の二つの例が雌雄たらしめる物との意識だ。

 近年、同性愛や両性愛、トランス・ジェンダー、Xジェンダー他、所謂性的少数派とされてきた性質を抱えた存在が表で陽の光を浴びる機会が増えている様子だ。僕もまた屹度この分類の端くれであり、然し乍ら同性に初めての恋情を含んだ眼差しを向けていた頃はそのような時代に至っていなかったのか、若しくは僕自身が“男の子と女の子が一緒になる事が当然の理である”と己をきつく縛り付け、個人的に禁忌だと判断していた精神的な領域に足を踏み入れるにあたり、途轍も無い恐怖に直面したかの心となり、震える心身を独りで竦ませていただけなのか。

 気の利いた前触れも用意していない明かしごとを一つ。僕には現在、持病の手に因って性機能を握り殺されている。生活を続けるにあたっては別段、難は伴わない。些かばかりの劣等感を抱く日は無きにしも非ずとはいえ目立つ不便を感じるでもなく、唯、単に、僕の日々重なる生活から性と云う物が綺麗さっぱりと引算を為されたのみとの意識だ。或る主の好都合とも呼べようか、寧ろ僕にとっては“憎い存在から逃げ切った”と表現するに等しく、嘗て幼い日に呪った己の肉体的特徴、脳から其れに至る道筋の切除が叶ったかのような心持ちですらある。願いが通るのであれば僕は此の儘、そういった欲を含んだ性機能は二度と訪れぬ人生をゆき、末代と成り、悪しき遺伝子を断ち切る事すら叶うのだ。

 僕の精神的な意識としての性自認は揺らぎやせず肉体の性別と一致していた。厭だと喚き散らしてしまいたいが程の執拗さを持ち、親族らに矯正の型に流し込まれ、やがて其処で固まる他の選択肢が浮かびもしない定められかたを強要されていたからなのであろう。然し僕はどうにも妙に諦めの悪い反発心までもを己の意志では捻じ伏せきれやしなかった。女の子は桃色を。男の子は青色を。狭い狭い世界にて息をする為には、そう云った決まり事が根を張っており、其処から伸びた荊棘は僕の脚を、胴を、喉首をきつく締め付けていた。

 我慢。堪え。辛抱。目に見える反発こそ行わずに居たが、かなりの長期に渡り願望と反した強要から逃れる手段は有りやしないのだろうかと、秘密裏に胸を塗り潰すが如く己が進むに満足の届く方角を、ずうっと見定めていた。

 初めて僕が持って生まれた身体の特徴に添うことを強いられ続け、だが、僕はある日に気が付いた。僕は、異性として扱われてみたいのだと。とはいえ肉体を作り変えようとまでの意は持たなかった。性差への興味、異性の象徴や服装に髪型といった装いへの憧れ。同性らからの異性を相手とするに同等な扱いも欲した。

 然しながら此の気を投げ棄てるではないにせよ、歳を重ねて薄らと曖昧な是等の理想的到達点へ進んでゆくことに諦めの色がさした。と、同刻に、僕は中性や無性に憧れるように成った。男性器も女性器も、また其等に付着してくる機能は要らない。若し、下半身の部品を始末したとて、代替のものなど不要だ。だからということもあるのだろう、先述した通りの我が性機能障害は、或る種の安堵すら与えてくれた。いつか持病には寛解がきっと訪れ、伴って機能障害も軽減するであろう。願ってもいないのに、望んでもいやしないのに。

 僕は持病の厄介を引き摺り歩いていながら、性という概念から離れた場所での呼吸が叶っている。望みたいのは、機能障害からの立て直しではない。此の儘僕は“彼”とも“彼女”とも決め付けかかるに材料が不十分である身体のまま、長くて永いであろう生涯を食い潰し続けていたい。

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