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11月の海


#わたしと海
将来に展望が持てず、お金もなく。当時の私はブルーな毎日を過ごしていた。
バイト代は楽器のレッスン代に消え、伝統的な価値観を大事にしていた親は私が四年制の大学に進学するのに反対だった。

「おう、最近どないしとんや」
年上の友達の電話に、私は、ぐだぐだと愚痴をぶちまけた。
「気分転換に週末遊びに行こか、空いてる日ぃはあんのんか」

「海でも見に行って、飯食うて帰ろ、どや」
海なんて、ずいぶん見に行ってなかったし、私は食いしん坊だ。もちろんオッケー、行くよ、ありがとう!

11月の半ば、彼のガタピシ揺れる車で、歌を歌いながらドライブするのは楽しかった。話も聞いてもらってすっきり。
「まあ、親の金で飯食うとるうちは、がまんせなあかんちうこっちゃな、早う稼げるようなれ、好きなことが出来んぞ」

年上風を吹かせた兄ちゃんに、ちぇ、と同意をするでもなく窓の外を眺めれば、海の匂い。

11月の初めにしてはずいぶんあたたかい、よく晴れた日で、駐車場に車を止めて降りた後、私は海まで走った。

砂浜でスニーカーを脱いで、靴下を引っ張って取り、そのまま海まで。
バシャバシャ水をはねかして砂に足をめり込ませて、冷たい水に踏み込んだ。長い時間は入っていられないような温度だったけれども、その冷たさは鮮烈で、リフレッシュされた気分だった。

海。どこかで自分につながっているような気がする。
「海が懐かしいのは、命がそこから始まったから」なんて、どこで読んだのだっけか。
そう思って立っていたら、追いついた兄ちゃんが、呼んでいた。
「こら!チビ!!出てこい!!寒いやろが!!」

ええ??なんか怒ってる…。
慌てて水から出たら、ガツン、とげんこつだった。
痛ったいなあ、もう!なんでだよぅ!!

「こんな時期にいきなり水に入るやつがおるか!11月やぞ!」
…まあね…私のオーバーオールのデニムは膝まで濡れていた。
割とスリムなやつだったので、まくり上げるわけにはいかなかったのだ。

「ここにいるもんねーっ」とか答えたらもう一発げんこつが落ちそうだったので、一応、ごめんなさいと謝っておいた。
「ほんまにもう!!こういう季節の海はなあ、見とくだけにするもんや」
えー…いやだって、海っていったら、入るよねえ…。

あ、でも確かに寒いかも…。
ほらみろ、みたいな顔した兄ちゃんが上着を私に着せ、私はしばらく海を眺めさせてもらってから、車へ戻った。

「ほんまに…」
とブツブツいいながら兄ちゃんはTシャツ一枚になって袖を肩までめくりあげ、暖房をガンガンかけたまま、私を送ってくれたのだった。
食事はコンビニのお弁当になったのだけれど、とてもおいしかった。

とてもいい気分転換になったし、とっても楽しかった、ありがとう、という私に
「おう、そらよかったのう」
…と笑って、彼は帰っていった。

波の音と、その潮のきいた空気の味。
今もどこかにあの日の海がある。秋の、冷たい海が。
「海を見に行く」というのが、イベントだったころのお話。


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