ネガティブの行方
文:井上雑兵
絵:フミヨモギ
「天使を見張る仕事には未来が見えません」
最近やたら無断欠勤がつづく若い部下の口から、そんな言葉を私は聞かされている。
ほう、未来ときたか。
未来。
いい言葉だ。
きっと希望の類義語のつもりで言っているのだろう。
だが未来なんぞ見えないのは当たり前だ。だれだって未来のことなんかわからない。
一寸先は闇。
なんなら私たちは常に闇の中にいる。
「そりゃだれかがやらなければいけない仕事だってのはわかりますよ。でも、あたしのやりたいことではない気がしていて」
やりたくないことは多いが、やりたいことはとくにない。
まるで神話のパンドラの箱のように、不平、不満、絶望、この世のありとあらゆるネガティブなものを吐露する若者。
日課のようにそれを受け止める上司たる私。
まあ、それが管理職たるものの仕事のひとつだ。これがメシの種なのだ。
しかし……。
しかし、そうして私の中にたまったネガティブはいったいどこの誰にぶちまければいいのだろう。
そんなことを思いながら、私は若い彼女の澱んだ瞳をながめている。
仮に、私が誰かに不平を漏らすとする。
すると、その誰かが他の誰かに不満をぶつける。
そうやってつづく果てしない連鎖の果てに、ありとあらゆるネガティブなものが流れつく砂浜のような場所を私は想像する。
けれど現実の私は、狭い会議室の中で若者の言葉を黙って受け止めているだけだ。
「最近は職場にストレスしか感じないんです」
彼女はそう続ける。
さも、それがたいへんなことでもあるかのように。
私は思わず口にしそうになる。
なあ若者よ。ストレスを感じるってのは当たり前のことだ。
地球上のあらゆるものが空気の抵抗を受けるように、人はただ生きているだけでストレスにぶち当たるものなんだ。
大の大人が「ストレスを感じるからなんとかしろ」などと声高に喧伝することは、生まれてきた赤ん坊が母親の子宮に逆戻りしたいと泣きわめくさまに等しい。
できるなら、それをわかってほしい。
理不尽は誰の身にも降りかかっている。
誰だって闘っている。
交通事故に巻き込まれてみたり、自分が病気になったり、友人が病気になったり、自殺したり、親が死んだり、親がろくでなしだったり、親に借金を背負わされたり、駅で酔漢にからまれたり、満員電車で圧死しそうになったり、推しがどこの馬の骨ともわからぬ俳優と結婚したり――数え上げたらきりがないほどの理不尽と、いつでも、どこでも、私たちは闘っている。
その昔、ある日をさかいに定期的に空から降ってくる超高密度の生体資源を保管し保全する我々の業務もそのひとつ。
世間から特別に感謝されるでもなく、特別な技能が必要でもない。
子供の夢にも出てこなければ、大人が懐かしがることもない。
まるで空気のように存在感が薄く、名前や顔のない凡庸な仕事。
けれど空気は必要なものなのだ。
たしかに私たちの仕事に未来はないのかもしれない。
ただ、今この瞬間に不断の闘争があるだけだ。
彼女はいつか闘うのだろうか。
ほぼ無限に日々襲いくる「それら」からは逃げても無駄なのだと、いつの日か悟るのだろうか。
醜く泣き叫ぶのをやめて、ただ黙って握った拳をかかげるときが来るのだろうか。
訪れるかわからないそのときを期待しつつ、私は大人として、職場の上司として、当たり障りのない言葉を彼女にかけるしかない。
けれど、どんなに必死に心を尽くそうと、私ごときの言葉がこの若者のねじくれた心に劇的な変化をもたらすことなどない。
それもまたストレスであり、私の抱えるネガティブであり、理不尽の一つだ。
仕事を終えて(あるいは翌日の自分に丸投げして)深夜に帰宅し、疲弊した脳で、録画しておいた映画「ブロークン・アロー」を観る。
くたびれ果てた中間管理職、その一日の終りにふさわしい、しょうもない映画だ。
ラストシーンで核ミサイルにブチ当たり「く」の字になって痛快にぶっ飛ぶジョン・トラボルタの姿を見て、私は思わず爆笑する。
おそらく今、私の中に蓄積されたネガティブなものは、すべてトラボルタが引き受けてどこか遠くへ飛んでいったのだ。
どこか遠くの静かな地に流れ着いたそれらは、ありとあらゆる他のネガティブと出会い、長いときをかけてゆっくりと傷を癒やすように浄化されていく。
夢のような情景を想像しながら、どうかこの世がネガティブで埋め尽くされてしまいませんように――どこかのなにかに祈り、私はつかのまの幸せな眠りにつく。
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