益岡和朗からティーヌさんへ② #LGBTQA創作アンソロジー リレー日記

御無沙汰しております。益岡です。
前回は年末の登板でしたが、はやいもので年度末になりました。
結局、コロナ一色ですね。困ったものです。

1.近況

最近、職場の研修で「ワクワクするような新事業を考案する」という課題があったのですが、あらためて「最近、ワクワクしてないな……」と。「なんだよ、ワクワクって……」と、なんかイラついてしまいして。
前回、お話していた同人誌は完成したのですが、その後、あらゆることにいまいちモチベーションが持てない状態が続いていて、もしかして、これがコロナ鬱なのかなあ、と。
基本的には読書や文藝創作はひとりでするものだし、自粛ムードとか、ステイホームとか、自分の生活には特段影響がないと思っていたのですが、それを契機にして結構、人と繋がる活動をしていたのだな、と思い知らされつつある。
読書会とか、同人誌つくったりとか、その品評会のための合宿をしたりとか、同人誌即売会に参加したりとか。
一年間の中で当り前のようにあったそういう恒例行事をモチベーションに、「ワクワクしない日常」に耐えてきたのだな、と再認識させられています。
やっぱり「誰かと自由に会える」環境は大事なのだな、と。
あと、「外食産業とエンタメ産業が20時で止まる」ということは、「一日が20時で終わる」という感覚に等しいな、と。少なくとも僕にとっては。
そういう「ワクワクのない日常」では創作物に触れる元気もいまいち出なくて……特に馬力が必要そうなコンテンツには近づきがたくてですね……
多くの方々が「エヴァンゲリオン」を卒業していくのを横目に、世代ど真ん中(テレビ初放送時は中学生でございました)の僕は、ぼんやりと立ち尽くしております(笑)

2.スイさんの「江ノ電追想」について

スイさんの「江ノ電追想」は、恩師のお墓参りに行く話です。そして、主人公と恩師の師弟関係を超えた繋がりが、ゆったりと示されていく話です。
江ノ電は、僕にとっては、なんだか自然とのんびりした気分にさせてくれる不思議な電車で、無論、観光で使うことしかない人間だからだと思うのですが、乗るたびに「この電車を通勤や通学で使っている人がいるんだよなー」と、しみじみ感心してしまうのです。
こんな非日常的な電車に乗って会社へ行って、仕事になるのかしらん、と、バカみたいなことを、毎回、考えます。
そういう個人的な思い入れが反映しているのかもしれませんが、この作品をとりまく、どこかのんびりとした、余裕のある空気感が僕にはとても心地よかった。
作品の展開としては、もっと緊張感を孕んだものになっても良いような題材だと思うのです。詳しく書くとネタバレになりますが、登場人物の配置を考えると、もう少しスリリングな印象になってもいい。
でも、スイさんはそういう筆致では描かない。ゆったりとした江ノ電の空気感と、それに倣うようにゆったりと会話する主人公とその友人の佇まいを持って、どこかのんびりとした、優しい作品に仕上げていく。
それでも芯のところは強い。
この小説は「バイセクシュアル」の作品として発表されていますが、作中において「今、女性と女性でつきあっていて、別れるつもりもないのならば、レズビアンと名乗っていいのではないか(あるいは、名乗るべきなのではないか)」という問い掛けがあるように思います。

自らのセクシュアリティを「属性」として確定させるべきかどうか。
自分で自分の性的指向をどう名付けるのか。
自分を定義する言葉があることを肯定的に捉えるのか、否定的に捉えるのか。

これらの問い掛けは、セクシュアルマイノリティ文学において、重要なモチーフだと思いますし、問いかけられ続けていくべき問題だと思います。
その問い掛けがフィクションの中で繰り返されることに意味があるし、その無数の集積の上に、新しい世界が広がっていく素地ができるのではないか。
「江ノ電追想」は、そんなことをゆったりと、身構えることなく考えさせてくれる一作です。

3.おすすめのクィア・コンテンツ

文芸ジャンルにおけるトピックとして、是非、ご紹介したいのが、このアンソロジーに参加している李琴峰さんの『ポラリスが降り注ぐ夜』(筑摩書房)による芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞のニュースです。
大変めでたい!
芸術選奨について少し触れると、この賞は小説家が受賞するものとしては異色といえる構造を持っています。
まず、候補作は小説に限りません。詩や短歌、俳句、記録文学など、あらゆる文芸ジャンルの秀作を分母として、予選委員が候補作選定にあたり、それを選考委員が二回にわたって協議して受賞作を決めます。
必然的に、選考委員も小説家ばかりではない。様々なジャンルの第一人者が集められる。
それ故、既存の小説のみを対象とした文学賞では拾いきれない、それでいて極めて重要な作品が掬い上げられる、そんな印象があります。
本誌掲載の「二丁目の日暮れ」を「日暮れ」というタイトルで内包する『ポラリスが降り注ぐ夜』は、新宿二丁目の老舗レズビアンバー「ポラリス」に縁を持ったひとたちの物語を緊密に閉じ込めた連作短篇集です。
本書は、あくまで小説ですし、作者も「あとがき」でその点を強調していますが、レズビアンバーという新宿二丁目においても「マイノリティ」といえる地点から、土地の歴史を追っていくという点では記録文学の趣もあり、ジャンルレスなこの賞の受賞作に相応しいと思います。
李琴峰作品に僕が惹かれる点は、「誰もが一方的な被害者ではない」ということが明確に示される点です。
セクシュアルマイノリティの文学においては、「少数者の視点」、「社会に虐げられる者の視点」が強調されがちです。
個人と社会の問題を扱った場合、そういう印象が強くなるのは必然的であるとは言えると思いますし、そうした面を描くことは必要だと思いますが、李琴峰作品の登場人物たちは、その中でも「個」と手放さない。どこまでも個人の物語として紡がれていく。
「セクシュアルマイノリティを登場させる理由」を求めがちな本邦の文学において、この視座は貴重なものです。(本来は、こんなことで貴重がられるべきではないと思いますが……)
その視座に、僕は毎回、はっとさせられます。
『ポラリスが降り注ぐ夜』においては、ひまわり学生運動を生きた人々を主人公とする「太陽花たちの旅」の主人公二人の心の行き交いに、特に感銘を受けました。そして、二人の決裂を思い出すシーンでの、この一文。

誰一人特別ではなかったし、誰を取っても特別だった。

この一文は、李琴峰文学を象徴する一文だと感じました。
誰もが傷つけ、傷つけられるのだということを、もう少し、日々の生活の中でも思い出して生きていけたら、社会は良い方に進んでいくのかもしれない。
セクシュアルマイノリティの生を扱う李琴峰作品の世界観は厳しいことも多いけれど、僕にとっては、人類がもう少しまともになれる可能性を示してくれる、「希望の文学」でもあります。

4.宣伝

前回、僕が発行人を務める「ますく堂なまけもの叢書」にて作成中というお話をした『アナーキー・イン・ザ・寂聴』と『自称読書家たちが加藤シゲアキを読まずに侮るのは罪悪である』は、ともに無事、刊行されました。
この二作は、BOOTHにて販売中ですが、「テキストレボリューションEX2」という通販型同人誌即売会にも出品中です。

https://text-revolutions.com/staffdaikou/products/list?category_id=&tag_id=&name=%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8F%E5%A0%82%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%91%E3%82%82%E3%81%AE%E5%8F%A2%E6%9B%B8


当サークル以外にも面白そうな本がたくさん出品されているイベントですので、是非チェックしてみてください。

もうひとつ、参加させていただいたのが『百合論考』という、その名の通り「百合」をテーマとした論考を集めた一冊です。

https://102202.booth.pm/items/2602773


僕は「テレビアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」第六期におけるシスターフッド」と題して、ねこ娘と犬山まなというふたりのキャタクターを軸に、歴史あるコンテンツであるテレビアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の最新作を「百合」として捉えなおしてみるという試みで参加しております。
「百合」に関する批評同人誌は、創作誌に比べれば珍しいのではないかと思います。
ご興味のある方は、お手に取っていただければ幸いです。

5.バトン

前回の鈴野広実さんには、拙作の校正を担当していただきました。その節は大変お世話になりました。ちょいちょい嬉しい感想などはさみながらやりとりしてくださって、とても楽しく作業ができました。
さて、鈴野さんからいただいたお題は「都会住み?田舎住み?」と、「今住んでるところに満足していますか?」です。
僕が住んでいるのは、埼玉県の某中堅都市なので(つい最近まで「ほぼ東京」というキャッチフレーズでアピールしていました)「都会」といってよいと思います。「そこそこ都会」ですかね。
住んでいるところに満足しているかといえば、それなりに満足しています。
大抵のものは身近なところで済ませられますし、東京ほど物価も高くない。
だから、過疎地の高校生を主人公にした拙作「最初の事件」は、ぜんぶ空想です。地方暮らしの苦労とか、まったく知らないで書いています。
ただ、母の実家は、福島県の小村なので、「あそこで住むとしたら……」と幼い頃から想像を膨らませていた、というのはあります。
ある夏休み、母の実家に滞在していたアニメ少年の僕は、月刊アニメ情報誌の発売日に、数時間かけてはるか遠くにある隣町の書店まで出かけていったのですが、完全に空振り。
地方は雑誌の発売日が一日二日遅れるんですよね。その上、マニアックな雑誌については、そもそも発注していない可能性もある。そんなことを知らなかった僕は、心底、落胆しました。
当時はネットなどもありませんから、オタク活動にも地域格差が大きかったと思います。「エヴァ放送してない」とかね。
最近は、お金があって仕事のことを考えなくてよくなったら、地方暮らしもいいかな、と思うこともあります。
でも、きっと、空想上の「都合の良い田舎」なんだろーなとも思います。
どんなにネットでつながっていても、「書店イベント」のような文芸イベントは、なんといっても「東京」がメッカですし。
そういう、「対人環境での文化格差」は今でも大きいですよね。このコロナ禍で大きな変化が起こる可能性もありますが……

さて、次回はティーヌさんの登場です。
セクシュアルマイノリティが登場する小説を読む「読書サロン」を主催するティーヌさん。
そんなティーヌさんには、「コロナ禍における読書会開催」について、お話を伺えたらと思います。
僕自身は読書会主催者として、「対面で出来ないあいだは……」と、開催をためらってしまっているのですが、「読書サロン」はオンライン開催を取り入れつつ、休みなく続けておられます。
コロナ禍における文芸イベントの開催について、変わったこと、変わらないこと、苦労されていることなど、自由にお話しいただければ幸いです。

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