成績が悪い子ほどノートは綺麗?
こんにちは。level4です。
私は、6年間ほど学習塾で塾講師をしておりました。
教えていたのは、小中高生、時には大学生にも専門科目を教えていました。
日々何十人と教えている中で、「理解が早い子」と「理解が遅い子」が見えてきます。
何がそのような違いを生んでいるのでしょうか。
ノートの違い
最も大きな違いが、ノートの汚さです。
全員ではありませんが、理解が早い子はノートが汚い。一方、理解が遅い子はノートが綺麗です。
(小学生でその傾向は顕著に感じました)
ノートが綺麗な子は非常にカラフルで丁寧なノートを取っています。
先生が黒板に書いたことをきっちり写し、綺麗なお手本となるようなまとめノートです。
ただ、そういう子ほど理解に時間がかかり、成績も平均以下であることが多いのです。
理解の早い子のノートは、基本「黒」「赤」しか使っていない場合が多いです。
また、ノート一面にメモ書きが散りばめられ、ぱっと見無秩序な汚いノートですが賢い本人にとっては最高のまとめ集になっているようです。
なぜ賢い子はノートが汚い?
全員に当てはまることではないので、はっきりとした理由は分かりませんが先生の立場から一つ言えることがあります。
それは、賢い子は板書を全て書き写そうとしないからです。
黒板に書かれた文字や図は説明のためのものですので、本来はそれを自分の頭で噛み砕き、整理して、自分に足りないもののみメモします。だからどうしても自分にしか解読できないようなノートになりがちです。
一方でノートが綺麗な子は、ノートを書き写す時丁寧に全て書き写そうとします。この書き写している間は、脳は働いていません。理解しながら写すと時間がかかり先生が板書を消してしまうからです。
書き写した子は後で復習する時に見ようとしますが、大半の子がノートを復讐することはありませんし、授業の中で理解しようとする子に比べて理解度に差が生まれます。
理解しながらメモを取るのは大変なこと
ただ板書を書き写すだけであれば脳みそを使わないのですごく楽です。
反対に理解しながら、また頭の中で整理し取捨選択しながらメモをするのは頭をフル回転させる必要があり、かなり大変なことです。
その大変さはまさに「脳みそが汗をかく」イメージ。
しかし、普段の授業から頭を使っている子は当然理解も早く、得た知識を自分のものとして使うことができます。
そもそも黒板の文字を書き写す必要はありますか?
私はないと思っています。なぜなら教科書に書いてあるからです。
しかし、今日の日本の教育では、残念なことにノートが綺麗な子が褒められます。
他人に見せるために勉強しているはずではないのに。
東大生のノートは美しい?
一時期流行ったワードです。
東大生のノートは必ず美しいという触れ込みでノートや書籍が多数販売されています。
これを否定はしません。
この時の美しいノートとは、字が綺麗とか色鮮やかで板書をそのまんま書き写したノートのことではなく、
関連付けやまとまりのあるノートであるということを言っているからです。
先程と同じく、ノートに写す際に自分の頭で整理することを幼い頃から心掛けてきた結果、一部の東大生ではまとまりのある美しいノートができるのです。
ただ「自分にとって」美しいノートであればいいのですから、他人に美しいと言われても本質的に無価値であることは皆さんにもわかるかと思います。
同時に、商品として人気なノート「東大生のノート」を使っただけで頭が良くなる訳がないことも分かっていただけるかと思います。
ノートが汚い≠賢い
「ノートが綺麗な子ほど成績が悪い」を、この対偶である「ノートが汚い子ほど成績がいい」と読み替えてしまう方がいますが、そうではありません。
これまでの内容からわかる通り、ノートが汚いことが重要なのではなく、理解しながらノートを取った結果汚くなってしまう子が多い。そして普段の授業から理解しながらノートを取る子は理解が早く賢い。というのがこの記事での結論であり、重要なことです。
最後に
ここからは内容にあまり関係がないので読まなくても大丈夫です。
「東大生ノート」が少し前かなり売れましたが、上手い商売だなと感じました。
東大生の誰もが綺麗なノートを取っているわけではないし、そのノートを真似たところで本人の頭を働かせなければ成績が伸びることはないのに売れてます。
これまでなかった需要を生み出し、消費者を誘導し販促を行う。きっと彼は綺麗なノートを書くのでしょう。
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