読書感想:「ケーキの切れない非行少年たち」「どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない非行少年たち2」 宮口幸治

「ケーキの切れない非行少年たち」はネット記事などでも何度かタイトルが出ているのを見かけたことがあり、有名な本だったが、いままで読んだことが無かった。図書館で偶然見つけたため、借りて読んでみることにした。さらに、「ケーキの切れない非行少年たち2」として「どうしても頑張れない人たち」も隣に並んでいたので、それも一緒に借りてきた。ここでは2冊まとめて紹介する。読んでいて、とても辛い、悲しい、やりきれないというような気持ちになるのだ。もし、自分や自分と親しい人が犯罪の被害に遭った場合は、犯人の事を許せないだろう。だが、犯人をいくら非難したところで根本的な解決にはならない。問題を抱えた非行少年は「見る力、聞く力、想像する力がとても弱く」、「自分のやった非行としっかり向き合う事、被害者の事を考えて内省する事、自己洞察」をする力が不足しているからだ。
そういった人が犯罪を犯すところまで落ちないようにする支援は非常に重要だという事は理解できると同時に、それがいかに困難であることは読むだけでも想像できるし、実際に支援に当たっている人の苦労はそれ以上なのだろう。

ケーキの切れない非行少年たち

・簡単な足し算や引き算ができない
・漢字が読めない
・簡単な図形を写せない
・短い文章すら復唱できない
といった少年が大勢いたことでした。見る力、聞く力、見えないものを想像する力がとても弱く、そのせいで勉強が苦手というだけでなく、話を聞き違えたり、周りの状況が読めなくて対人関係で失敗したり、イジメに遭ったりしていたのです。そして、それが非行の原因にもなっていることを知ったのです。

ケーキの切れない非行少年たち

例え同じものを見ていても、相手にも同じように見えているわけではない、というのはとても自覚しにくい事だと思う。本書「ケーキの切れない非行少年たち」には、「Rey複雑図形」という図をある非行少年に模写させた画像が載っている。見本の図とかけ離れた図を描いていることがわかる。画像の一部ごとを見ると見本を真似ている部分が見受けられるが、全体のつながりがおかしいのだ。
本文から引用すると、

これを見た時の感想を貰ったまだに忘れられません。私の中でそれまでもっていた発達障害や知的障害のイメージがガラガラと崩れました。
ある人に見せて感想をもらったことがあるのですが、彼は淡々と8移すのが苦手なのですね」と答えました。確かにそうかもしれませんが、そんな単純な問題ではないのです。このような絵を描いているのが、何人にも怪我を負わせるような凶悪犯罪を行ってきた少年であること、そしてReyの図の見本が図1-2のように歪んで見えているということは、”世の中のこと全てが歪んで見えている可能性がある”ということなのです。そして見る力がこれだけ弱いとおそらく聞く力もかなり弱くて、我々大人の言うことが殆ど聞き取れないか、聞き取れても歪んで聞こえている可能性があるのです。私は”ひょっとしたら、これが彼の非行の原因になっているのではないか”と直感しました。同時に、彼がこれまで社会でどれだけ生きにくい生活をしてきたのか、容易に想像できました。つまり、これを何とかしないと彼の再非行は防げない、と思ったのです

ケーキの切れない非行少年たち

私自身も、他の人が気付くことを見落としたりすることがあって、「見る力」、または注意力のようなものが足りないのではないかと不安になる事がある。他人事とは思えなかった。

もうひとつ、本書の内容から紹介したい部分がある。
「不適切な自己評価」という点だ。

問題を抱えていても、それを自分で認識できていなければ、正すこともできない。適切な自己評価ができない理由は、「適切な自己評価は他社との適切な関係性の中でのみ育つから」だそうだ。自己を適切に知るには他者とのコミュニケーションを通じて、相手のサインを受け取り自己にフィードバックする作業を数多くこなすことが必要だという。ここで、相手からのサインを上手くキャッチするための「認知機能」(聞く力や見る力)が関係していて、これが低いと自己へのフィードバックも歪んでしまう…自己評価が適切に行えないという事だろう。自己評価は高すぎても低すぎても不適切であれば対人関係でトラブルを引き起こす。後の章でも、「自尊感情が低い」ことを問題視し、「自尊感情を上げるような支援が必要である」と安易に締めくくるのは問題であると指摘している。

どうしても頑張れない人たち

「頑張ってもできない」「頑張る事ができない」(能力が及ばない)人もいる、ということを訴えている。支援が必要にもかかわらず、支援に繋がれない人たちが大勢いるという話だ。「支援したくないような相手だからこそ支援しなければいけない」と書かれている。理屈ではわかるが、実行するのがとても困難であることは想像に難くない。「弱者叩き」、支援や社会保障など不要、切り捨てるべきと言った冷酷な論調はインターネット上でもよく見かける。世の中、何が起こるかなどわからない。何らかの不幸な事故によって、自分が弱者、支援が必要な側に転落する可能性もあるかもしれないということは考えたことが無いのだろうか、と思う。

「支援したくないような人こそ実は支援の対象者」
どのような人か本文から引用する。

頑張っていないのに文句ばっかり言ってくる、クレームばっかりつけてくる、他人ばっかり責めているように感じられる。そんな人には、支援してあげたいというより、あまり関わりたくないと感じる方が普通なのではないでしょうか。

どうしても頑張れない人たち

本当は支援が必要なのに、ネガティブ、被害的な思想に陥っていて支援者の事も信用できずに試そうと問題行動を繰り返し、支援者すら遠ざけてしまう。なんという悪循環だろうか。著者はそういう人こそに支援が必要だと主張している。

どれだけ励ましても、頑張ってもできない人がいて、常にできる人と比較される。”一生懸命努力して頑張れば必ずできる”という言葉にどれだけの人が苦しめられてきたかとこの本では訴えている。できる人の間隔から言うと、できない人の事など理解できないと想像できる。でもできない人を責めるだけでは何も解決につながらなくて、できない人をさらに苦しめて、その結果犯罪に手を染めるまでに追い詰めてしまえばさらに不幸になる人が増えて…となってしまうのだろう。そのことは心に留めておいて欲しい。

とにかく支援する方も大変で、支援者同士の間でも問題が起きてしまう事の指摘や、支援者にも支援が必要であるという事も説いている。
「支援が必要な人」の抱える生きづらさや悪循環、支援の難しさを考えるだけでも気分が重くなってしまう。しかし、このような困難に真摯に取り組み、少しでも状況をよくしようと働きかけている人もいる、というのが少しの救いがあると感じた。

#読書感想文


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