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復職について

 この4月から僕は復職した。業務負担は多少軽くなったとは言え、休職前とほとんど同じ仕事をしている。今日(2022年8月7日)まで、約5か月働いてきた。今は、この仕事にとっては、時間的に余裕のある時期だ。この機会に、復職してどうだったか、何を考えているか、ということを書いておこうと思う。
 まずは、働くということは、分かってはいたが、かなりハードだった。分かってはいた。それまで4年間働いてきたのだから。しかし、ここまでだったか。僕は丸1年休んでいた。もちろん、その間は全く忙しくなかった。かなり時間と心に余裕があった。ほとんど何のストレスもなかった。こんな感じの心の余裕を常に保っていれば、人生、仕事、あらゆることはうまくいくのではないかと思った。しかし当たり前の話だが、それはそういう状況だからそう思うのであって、現実の労働環境に投げ出されると、そんな考えは跡形もなく消し飛ぶ。
 復職前に比べて、様々な業務負担、責任など、だいぶ軽くしてもらってはいた。しかし、そうは言っても、普通にフルタイムで働くのだ。忙しい。忙しい。忙しい。とにかく日々を、やっていかないといけない。「心の余裕」なんてものは、ない。労働は、その「余裕」の隙間が存在することを許さない。少しの隙間を見つけると、嬉々として潜り込んでくる。見事だ。
 ハードだった。いっぱいいっぱいだ。もうすっかり労働者になった。心も体も。1年休もうが、2,3週間働けば疲労困憊。休息の貯金なんてものはない。休息はマイナスをゼロにするだけで、プラスにするものではない。そう思った。
 ここまでに書いてあることは、よくないことばかりだ。忙しい、疲れた、余裕がない。すべて本当のことである。しかし他にもいろいろある。
労働は、仕事と人間関係で成り立っている。人間関係について言えば、今の職場は、良い。言い忘れていたが、僕が休職することになったのは、前の職場での労働が原因である。それから、転勤して、今の職場に来て、直後に1年間休職して、復職した。
 前の職場は、小さい職場だった。そのため、職員の数も少ない。そして、少ない中に、変わった人が多い職場だった。
 「変わった人」というのが、どんな人かというのは難しい。いろんな人がいた。僕は前の職場に3年いた。3年間、ほとんど毎日職場に行って、少なくとも8時間、一緒に仕事をする。そうすると、同僚のことは、よく分かってくる。
 ほんとうによく分かってくる。下手をすれば、家族とか、恋人とか、それ以上に、この人たちのことを僕は、分かっているのではないかと思うほど、よく分かってくる。
 それはぜんぜん嬉しくもない。それどころか、どこかもの悲しい。人間存在の根本に関わる、悲しみであるような気もする。
 一見、仕事ができて、強そうな人がいた。彼とは3年間いろいろな形で一緒に仕事をしてきた、共に難局を乗り越えようとしたこともあった、底知れない悪意を向けられることもあった、彼は、深い孤独と、弱さを抱えた人間だった。彼は女がいないと生きていけない人間だった。その上で女を深く軽蔑していた。
 僕は彼を嫌いではない。彼に対する感情を簡単に言葉にすることはできない。それが同僚であるということかもしれない。
 話がそれた。僕の前の職場には、職場に2、3人はいるよねっていう変な人が、たくさんいた。全体の9割はそういう人だった。しかし、どんなふうにおかしかったかということを説明するのが難しい。エピソードを、示すことはできる。キャッチーなものもある。しかし、そういうことではないのだ。人は一人一人、狂っている。それは絶対にそう思う。完全に正常な人間なんて存在しない。しかし、その「狂い」をなんとか日々チューニングして、ある程度まともな状態にして外に出ていくというのが、多くの人にとっての生きるということだと思う。その「狂い」のチューニングを放棄したり、または、できなくなったりした人たちが集まっていたような気がする。または、そうしなくてもいいような、その努力がアホらしくなるような、空気が充満していたというべきか。
 僕はまともであろうとしていた。それが間違いだったのかもしれない。その中で、なんとか、うまくやっていこうとしていた。コミュニケーションを諦めなかった。と思う。コミュニケーションを諦めたら、人間ではなくなる気がしていた。
 何の話をしていたのか。今の職場の人間関係が、悪くないという話をしていたのだった。これでは、「休職について」と変わらなくなってしまう。
 今の職場は、前の職場よりも圧倒的に大きい。職員の数も多い。「狂い」をきちんとチューニングした人たちが集まっている。みんな、ちゃんと表に出てもいいくらいの、「狂い」の状態で、集まっている。
 やはり数というのは、大切なのだと思った。小さな集団は、毒素が充満しやすい。風通しが悪い。大きな集団は、一人が毒を吐いていても、薄まる。
 僕は今の職場に来て、この業界にもまともな人がいたのかと深く驚いた。人の悪口を大声で言い続けるのは異常だったんだ。悪意って、普通は表に出さないんだ。報連相はするんだ。締め切りより前に仕事は終わらせるんだ。むしろかなり前に終わらせるんだ。管理職は管理するんだ。へえー。
 年齢層も幅広い、若手、中堅、ベテラン。仕事ができる人、できない人、熱心な人、やる気ない人、かわいい人、かっこいい人、愉快な人、すごい人、ろくでもない人、不思議な人、謎の人、やばい人。いろんな人がいる。
 こういうのが職場なのだな。多様なのだ。多様だから俺がいたって別に問題ない。そして、その多様さを支えているのは、コミュニケーションだと思う。ちゃんと会話をしている。会話は大切だ。前の職場では会話がなかった。
 ここまで書いてきたことをまとめると、仕事は忙しいが、人間関係はいいということだ。
 なんか、けっこう恵まれていないか、俺?
 そんな気がしてきた。

 恵まれている。
 そうかもしれない。
 休職前と、後とで、変化したことがある。
 働き続けるというのは、不自然なのではないかと思うようになった。
 そりゃもちろん、働き始める前から、「働きたくないよね、だるいよね」というのはあった。しかしそれでも、働くというのは人間に必要で、自然なことなのだと思おうとしていた。
 どうやら違うらしい。
 人生のうち40年をひたすら働き続けるというのは、狂気の沙汰である。そしてそのためには文字通りの狂気が必要である。休んで、現場に戻って、改めてそう思った。
 普通に考えておかしいのだ。単にそういうことだ。だから、今、毎日がめちゃくちゃに忙しく、しんどい仕事をしつつも、人間関係は良好であるという、きわめて普通の、一般的労働環境が、「普通に」きつい、僕は。
 復職して2か月ほど経った時、正直、もう無理ではないかと思った。これは「普通に」無理だ。環境がとか人間関係がとかではなく、普通の環境で普通に働くというのが、普通に無理。ある日、真夜中に目が覚めて、頭の中が「無理」で覆いつくされて、わんわん泣いた。次の日は休んだ。
 そしてその次の日は行った。それも「普通」だ。僕は。普通なのだ。そういうものだ。
 これから先、どうなるのだろう。
 休職前と比べて、弱くなった気がする。
 僕の中に、働くということに対する疑念が巣くってしまったのが、原因だと思う。無心で、働くことができない。常に疑ってしまう。これが当たり前だと思うことができない。そして、その僕の疑念はおそらく間違っていないのだ。
 どうなるか。夏の終わりから冬にかけて、また猛烈に忙しくなる。
 このままでは、どこかでまた限界が来る気がする。
 どこかで僕も狂わなければならない。覚悟を決めなければならない。
 なんだかんだ今の僕には失うものがないのだ。パートナーはいるが、子どもはいない。俺が働いてお金を稼がないといけないという、問答無用の理由がない。
 そこがいまいち、ふらふらしてしまう理由かもしれない。
 甘い。確かに。
 これが今の僕の現状です。
 どうなるか楽しみにしていてください。希望や絶望やあれこれがありふれた人生をこれからも生きていきます。チャオ。

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