病気になって考えた③ 普通が幸せってどういう意味?

『病気になって考えた』シリーズは、23歳で脳腫瘍と診断され入院、手術を経験したボクが思ったことを忘れないように記しておくための企画です。


「普通が幸せだよ」って言葉をよく聞くと思います。ドラマであったり、自己啓発的なセミナーであったり。しかしそれを鵜呑みにするのは非常に危険なことだと僕は思います。「あそうか、普通が幸せなら、普通に生きていればいいや」と思うのが一番もったいないです。「普通が幸せ」がどういう意味で言われているのか、考えてみます。

僕が入院していて、気管切開で喋れなくなり、トイレもすべてベット上で行い人に片付けてもらって、おもつを履いて睡眠剤で眠っていたとき、「普通に生活を送っていた頃に戻りたい」と思いました。

自分で寝起きして、身支度をして、学校に行く。友達を喋って、食事をする。そんないわゆる普通な生活を切望していました。

普通の生活を羨ましくなったのは、普通の生活を送れなくなった時。日々を消費しているだけのような平凡な毎日でも、そんな生活を送れなくなったときには羨ましく思います。

「普通が幸せ」というのは、そのような意味を持ちます。

じゃあ普通の毎日を送っている人が、言い訳の意味で「普通が幸せ」といっていいのでしょうか?

特に刺激的でもない毎日を適当な仕事で消化して、定年まで適当に働く。働いて飯食って風呂入って寝る。そういう風に生活を送っている人は立派です。しかしそのような「普通」を享受して、日々を消費している。その場合の「普通が幸せ」というのは言い訳になってしまうのではないでしょうか。

「普通が幸せ」という言葉は言い訳的に使うものではなく、普通を失った人が、普通の日々ですら幸せだったという意味で使うものです。

普通が幸せと言い訳として使ってはいけないです。

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